長刀岩(香焼村蔭ノ尾 長刀岩)かげろう(影呂宇)島の長刀岩台場

長崎は江戸時代に幕府の鎖国政策の中で公に認められた唯一の玄関口でした。
そのため長崎港はもちろん江戸湾同様に海防上非常に重要なため各所に台場が築かれています。
まさにダイバー憧れの地といっていいでしょう♪

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今回はそのなかのひとつ蔭ノ尾島と長刀岩台場を紹介したいと思います。
行ってみたくても近づけない島、それが香焼島の先にある蔭ノ尾島です。
ちなみに上の写真は神の島から見た蔭ノ尾島になります。左の〇付近が長刀岩台場附近、右の〇が蔭ノ尾台場附近となります。

幕府は長崎港警備のため承応2年(1653年)の松浦鎮信に命じ7か所に台場を構築させています。
場所は大村領の白崎・女神、佐賀領の高鉾・蔭ノ尾・長刀岩、そして長崎領(天領)神崎・太田尾で、この7つの台場を古台場または在来御台場と呼びます。

蔭ノ尾島にあった長刀岩台場には当初大筒3石火矢3門が設置され、蔭ノ尾台場には大筒3石火矢2門が設置されたようです。
その後フェートン号事件で失態した幕府は1808年に神崎・女神・高鉾・蔭ノ尾に台場を増設しスズレに台場を新設、これを新台場と呼びます、また1809年には岩瀨道、稲佐、高浜、野母、樺島、魚見岳に台場を新たに築いています。
翌1810年には神崎・高鉾・長刀岩の台場を増設し魚見岳に台場を新設しています。これらを増台場と呼びます。

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イメージが分かりにくいと思いますので女神大橋から見た長崎港外の俯瞰写真になります。
写真の中にある島の多くに台場が設置されたことが分かるかと思います。

いかに幕府のショックが幕末同様大きかったかが分かりますが、林子平の海国兵団やオランダ風説書などちゃんと分析しまともな人間が対応していればある程度は防げたような気がします。

さて長刀岩台場ですが1810年の増設で石火矢16門が新たに加わり、台場の武器だけでみれば神崎・高鉾とこの長刀岩台場の3つが突出しています。(幕末期の伊王島・神の島台場を除く)

その長刀岩台場ですが現在も石垣など多少遺構が残っているようです。ただ残念ながら三菱造船の敷地内のため中に入ることができません。
ちょうど今、三菱が造船不況で香焼工場を売る話が出ていますが、どうせならこの台場の遺構がありそうな一角を長崎市が買い取って整備してくれると最高なんですがね。軍艦島ツアーのコースに加えれば人気出ると思いますがね(笑)
尚台場の絵図については福岡県立図書館のデジタルライブラリーが充実してます♪

島を整備する財源がない?
マイスをやめる(大笑)議員を減らす(笑)議員歳費を減らす♪いい案と思いますが(大笑)
外国なんて議員報酬がない国が沢山ありますしね。

さて長刀岩ですが伊能大図では長刀崎と記されています。おそらく海岸沿いに長刀の形をした岩があったことが地名の由来と思われます。測量日記には残念ながら蔭ノ尾島自体の記述がないようです。

今度は長刀岩のある蔭ノ尾島についてちょっと記します。
なんと文献的には鎌倉時代から名のある由緒ある島です。

戸町氏と深堀氏の所領相論で(深堀文書)で影呂宇島が戸町氏の所領として認められたことが出ているようです。
江戸時代までは漁業の島だったようです。

昭和17年ごろまでは一つの島だったようですがその後、香焼島との間が埋め立てられ造船の島となり、昭和45年の三菱ドックの建設に伴い住民が深浦や堀切に集団移転したようです。

また長崎要塞の装備として島に20mm機銃が6門があったようです。
その歴史ある蔭ノ尾島ですが地名の由来自体は影呂宇(かげろう)の名からすると深堀氏や戸町氏どちらかの所領から見ると香焼島に比べて陽炎のようにほのかに見えることから名づけられてのかもしれません。その後、かげろうに対して別の当て字がされたのかもしれません。

蔭ノ尾島、いつか自由に旅できる場所になることを願います。

補足でこの蔭ノ尾島の変遷を航空写真で「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用。

まずは1962年の蔭ノ尾島

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次の写真が2010年の蔭ノ尾島です。台場は運よく守られた形ですが島の変貌に驚きます。

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