太田和(面高村太田和郷) 大島の玄関口

今回は大島の玄関口、太田和です。私が小さいころ憧れた場所でした♪今たとえるなら海外ですかね(笑)
地元の新聞では香焼工場を買う候補に大島造船があがってますがあの大島の対岸にあるかっての連絡船のターミナルがあった場所が太田和です。

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私が地名に興味を持つようになったそもそものきっかけは、小学校の頃にかなづちだった私を知らぬまに水泳教室に強制的に入れられたことに始まります。当時大橋から住吉まで電車でたしか30円でしたがセレブだった私はなんと10円も高いバスを利用して通っていました(笑)
なぜかといえば高級志向があったわけでなく単に友人と一緒に帰るためでした(笑)いつも松山のプールから大橋まで歩き、友人によっては長浦行き、友人によっては女の都団地行きのどちらかによく乗っていました。大橋からバスに乗るのは松山からだと10円高くなるからです。

そのうち長崎バスに乗るのが好きになり、中学時代にはバスで友人とバス旅するようにまで発展しました。バスの行き先が気になりだしたのは小学校の高学年の頃、その頃になると水泳教室はやめ、勉強のできない私はこれまた知らぬ間に強制的に街中の塾に入れられました(笑)勉強は案の定、今でも身についてませんが(大笑)長崎バスはもっと好きになり、太田和、風早、宮浦なんて行き先を住吉で偶然見たときはいったいどんな場所なんだろうと憧れたものでした。

なんといっても今でこそ太田和行はありませんが、当時所要時間は2時間40分ほどで、国鉄特急かもめに乗っていれば十分博多に着くぐらいの時間でした。バスの中の停留所地図を見ても全然知らない地名ばかり、今でいえば本当に太田和行のバスを見ることは外国行き飛行機や船でも見るような感覚でした。

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写真は太田和港とさいかい交通です。憧れの地にようやく行けたのは中学校の時でした。今でも太田和に行った時のことは客が友人と2人だけだったこと、バス走行中にキジが横切ったことを覚えています。あの頃の太田和はまだ大島大橋などもちろんなく、太田和港から大島の馬込港まで連絡船が運航されており、私も船で大島へ渡り崎戸本郷までバスに乗りました。高校の頃になると成長したのか?バスから鉄道、憧れの場所も長崎から北海道になり現在に至っています。

さて話が脱線しすぎましたが、ここからは本題の太田和について、伊能大図や測量日記には字が違いますが大多和村と出ています。
もともと太田和氏という地頭がいたことや、讃岐の塩飽島から平家の残党が移住した地と伝えれれています。太田和氏ですが秀吉の朝鮮出兵(侵略)に参加しなかったため改易されています。平和主義者だったのか不明ですがそんな武士もいたようです。今も場所はわかりませんが太田和氏館跡があるようです。

太田和氏がいたのが地名の由来になった可能性も多少ありますが、太田和のタワには峠といった地形的な意味があり、峠下の集落に名付けられることもあるようなので地形的な意味で太田和の地名になったように思われます。実際、大瀬戸方面に行く場合はよっと登りになりますし、そこから瀬川木場方面はもっと上る峠になります。

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写真はかっての太田和港のターミナルとさいかい交通バス
太田和ターミノになってしまった字が時を感じさせます♪

大島大橋も現在は無料化されましたが、連絡船の代わりに路線バスもまだ太田和~大島間を7往復ほど走っているようです。
ただ時刻表が見ずらい、あれでは行くなと言っているような気さへします。前のように冊子タイプの時刻表にさいかい交通の時刻を載せるなり、せめてネットだけでも路線の一覧時刻が見られるようにしないとバスで行く気にならないのが残念なところです。
尚、新地ターミナルでは1枚になった時刻表がもらえます。それをネットでPDFで出してくれるだけでもいいんですけどね。。。。

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