今はなくなりましたが買い物は三菱の社倉でしてましたね。まぁ~やはり水の浦といえば三菱造船所でしょうか、目の前に大きな三菱造船所が控えています。

また市営の交通船が元船町(大波止)~水ノ浦を結んでいた時代もありました。今も造船所の横には海が見え、雰囲気を感じさせてくれます。
今は市内からバスが多数運行されています。下の写真が造船所横の水ノ浦の光景です。

さてその水ノ浦に福岡藩の御茶屋や御船江があったことを最近知りました。
正直、長崎関係の本にも私が所有しているものには見受けられません。
知るきっかけは、長崎の古地図を見るのが好きなのでそこで福岡県立図書館郷土資料課のデジタルライブラリーを見ることができたからです。
なんかネットもこういうときは本当に有難いですね。長崎警備の絵図を公開してくれたことに感謝です。
ぜひみなさんも福岡県立図書館郷土資料課のデジタルライブラリーで見てください。沢山の絵図を見ることができます。
その中の魯西亜船湊内へ挽入之節小浦並大鳥崎御備之図がまさに現在の水ノ浦になります。
絵図からはレザノフが入港する際に福岡藩がかなりしっかりとした築港を行ったことが伺い知れます。
またその絵図の説明には水浦には、寛文3(1663)年、福岡藩の御茶屋が建てられ、寛文9(1669)年に御茶屋が長崎市中に移転するまでは長崎御見廻の際、福岡藩主が利用したとされます。 その後、寛政7(1795)年から翌年にかけ水浦御船江の普請が行われました。と書かれています。
絵図からも池らしきものが2つ見えます。場所的には、現在埋め立てがが進んでいる地域でもあるので水ノ浦公園周辺の平地と考えられます、この辺周りは結構傾斜地だらけです。小学校の頃はこの公園でいとことよく遊びました。
水の浦の地名ですが、伊能大図には水ノ浦郷、測量日記には水ノ浦の地名並びに筑前抱屋敷と記されています。近くの平戸小屋町と違いは水ノ浦が御茶屋が作られる以前からあった地名と考えられます。地名がなければ筑前(福岡)藩にちなんだ地名になった可能性もありますしね。
水の浦の地名の由来ですがはっきり断定はできませんが、地名の字の通りやはり水(飲み水)があった点と考えられます。
特に貿易港のある長崎では貿易船に飲み水は必至ですので重要です。神戸港が外国船に人気があったのは六甲の美味しい水があったからともいわれています。それぐらい飲み水は重要なものです。
元々、目の前に海があるのに地名に水を使うというのはやはりそれだけ大事な水(飲み水)があったと普通に考えられます。
ちなみにアイヌ語で飲み水はワッカになり、稚内などもヤムワッカナイ(冷たい飲み水の沢)から来た地名です。北海道にはワッカ系の地名は止若内、若菜、稚咲内など各地に残っています。まぁ~民族に関係なく人間には飲み水が重要です(笑)
福岡藩が御茶屋を設けるぐらいですから美味しい水があったのがわかります。池も2つ見受けられますし、他の地域と違って海沿いにある程度の飲み水を確保できる重要な場所だったことが伺い知れます。ただ残念なのはこの御船江に関する案内板がないこと。
昔、こんな立派な御船江が築かれた水ノ浦ですからぜひ当地に御船江の案内板など設置してほしいものです。
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