今年はコロナの影響で本当に残念な結果になりましたがイベント自体は素晴らしいので今後も続いてほしいですね。
さて話を新地町に戻します♪
江戸時代の長崎の絵図を見ると新地が出島のように島だったことが分かります。上の写真でいえば、中華街の門より手前の道路は今では想像もできませんが海です。湊公園ももちろん海ですし、長崎バスの新地ターミナルも海です。
上の写真の手前に見える2つの横断歩道より左側が新地で後は長崎港の海が広がっていたことになります。
またこちら側には海に面して1番から4番の水門があったことが分かっています。
また上の写真の新地橋広場ですが昔は川が流れ、石橋がかかり左側の中華料理屋付近に表門があったことが推定されているようです。
その新地ですが1702年3月に海を埋め立て作られました、入り口は2か所で北側(銅座町方向)に石橋のある表門、東側(籠町側)に南門があったようです、南側(湊公園方向)に均等に4つの水門がありました。新地埋め立ての目的は唐人船の船荷を守るためです。五島町付近にあった倉庫が大火で燃えることがあり船荷を守るために作られました、倉庫であるため居住は認められていません。形はほぼ長方形の島で敷地は3500坪、土蔵が12棟900坪でした。新地内には番所も設けられ唐人は奉行所の許可がないと出入りができなかったようです。
その新地ですが新地倉庫所有者(新地頭人)が新政府に献納し明治元年に居留地になっています。その流れで明治2年には周辺が埋め立てられ新地が島の形が失われています。また明治2年の唐人屋敷の大火にともないこの新地に居住する中国人が増え、現在の中華街に発展することになります。
地名は文字通り、新しく埋め立てによって作られた土地から新地になっています。伊能大図にも小さく記載され新地唐人荷物蔵とあります。もちろん測量日記にも同様に出ています。倉庫だってので出島みたいに復興の話もないでしょう。ここが例えば唐人屋敷のある島だったら状況も違ったでしょうが歴史にもしはありませんね(笑)
私にとって新地といえば、江山楼のちゃんぽん♪と長崎バスの新地ターミナルです。江山楼のちゃんぽん大好きですけど客が多いので最近はリンガーばかり利用してます♪上の写真ですが中華門より手前はすべて海でした。
新地といえば~~やっぱり私は本社前のイメージです。
若い方は分からないかもしれませんね(笑)
長崎バスの新地ターミナル行きですが昔は本社前行きでした。住吉から海に行くなら宮摺行き、街にでるなら中央橋か本社前行きに乗っていました。正直言って、子供の頃は本社前という地名だと勘違いしていたので、新地ターミナルと表記が変更されたときはなぜ?と残念で仕方ありませんでした。大人になってようやく成長できた私は長崎バスの本社前だったと気づきました(大笑)
今日は長崎新地のお話でした♪
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