昭和61年樺島大橋ができるまでは、長崎バスの終点も樺島ではなく脇岬行きだったのでご記憶の方もいるかと思います。
場所は樺島の手前ですので市内から長崎バスで1時間ほどかかります。
写真のような夏雲が出ているといい写真に見えます(笑)
近くには上の写真のように脇岬海水浴場の砂浜が広がっています。その奥が脇岬の集落、先端が脇岬になります。
そうそう脇岬遺跡も畑の中で発見された場所ですので昔から人が生活していたことが分かっています。
上の写真は海水浴場から見た脇岬と対岸の樺島写真ですが、バスは何処だ?
なんとしぶとく小さくてわからないかもしれませんが樺島に渡るバスが写っています(笑)
さて脇岬ですが江戸時代は佐賀藩深堀領に属し脇御崎村と記されています。また伊能大図や測量日記にも脇御崎村の記載そしてその泊として脇津の地名の記載があります。また単に御崎村と呼ばれた時代もあるようです。
脇岬の地名由来を考えたいと思います、ただ単に昔は野母崎と対をなす(御崎)岬と呼ばれていたのではないでしょうか。御崎道があったように、そのうち近くにある脇津の港が賑わい大きな集落になり、脇津と御崎を合わせた地名として脇御崎(岬)の地名が形成されたように思われます。やはり脇津に影響された地名のような気がします。
また可能性はとても低いですが湧き(飲み水の湧く)岬から脇岬になった可能性もゼロではないと思います。飲み水があることから岬付近に集落も形成されていますので。。
上記写真は1975年当時の脇岬と樺島周辺の空中写真です。「国土画像情報(空中写真) 国土交通省」より引用。
まだ樺島大橋もなく脇岬周辺も当然ですがすっきりしています。この頃は橋もなく渡船だったので島民も橋ができるまでは生活も大変だったことと思われます。
上記写真は2010年当時の脇岬と樺島周辺の空中写真です。「国土画像情報(空中写真) 国土交通省」より引用。
こちらは架橋され脇岬と樺島、特に中間にある中島が大きく変貌しています。長崎の場合、埋め立てや架橋による変化が他県よりも海に囲まれた県だけに多く面白くもあります。
今日は野母崎脇岬のお話でした。
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