三菱兵器住吉トンネル工場 住吉

今日は長崎市内北部の住吉地区。
私の生まれ育った西浦上地区でもありとても親しみを感じています。

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お買い物には住吉商店街や市場もありますし、電車、バス本数多くとても便利です。
また中園地区には国鉄時代末期に西浦上駅ができ、さらに便利になりました。これで空港や新幹線の駅ができればまさに万能ですがそんなものは今後も計画すらできないでしょう(笑)

江戸時代は浦上北村として天領だった時代もあったようですが慶長10年からは大村藩領になっています。
明治5年には浦上家野(よの)、浦上木場、浦上西、浦上北、滑石村の5ケ村が合併して西浦上村ができ、現在も学校や役所の支所に西浦上の名が残っています。伊能忠敬の測量日記には浦上北村本村、人家が散在していて字なしと記され、残念ながら住吉大明神の記載はありません、只西または東という記載があり、この東部分が西浦上村東北郷の由来になった可能性は高いと思われます。

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写真のように街にでるなら路面電車が安いので一番利用されてます。この電車は元仙台市電で先ごろ残念ながら引退し、先日の長崎新聞にこの車両が無償譲渡の記事が出ていました。移送費や維持費はかかりますが残ってくれるといいですがね。。

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住吉といえば写真のようにアーケードもあるし市場もあるし便利です。ただ大きな100円ショップがなくなったことや、昔から大きな本屋がないのが残念です。大学が近くにあるのに残念です。写真に中通市場の文字がありますが、伊能忠敬の測量日記には字中通の文字があり、ちょうど写真の地点からアーケード方向(チトセピア)が旧浦上街道ですのでこのアーケードの通りが測量日記の中通の可能性もあります。尚、西北町の小字に中通がありますのでこちらの場所の方が位置が分かりませんが可能性が高いと思います。

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国道沿いも人、店と賑わう住吉商店街です。やっぱりこの色の路面電車が一番落ち着きます(笑)
さて住吉の地名の由来ですがもちろん浦上街道沿いにあった住吉大明神(現:住吉神社)が由来です。
意外と古く、1635年に大村純長が拝殿を寄進したことがわかっています。原爆で社殿や社務所は倒壊したようですが鳥居は昔からのものが残されています。

住吉神社を通れば今も当たり前ですが必ず一礼します。小学校の頃は神社の裏でよく遊んだ記憶があります。
鳥居は石を載せると縁起がいいと聞いて友人と石をいっぱい載せたこともありました。(結果的に他人様の石を落とす)
今考えると微妙な罰当たりな行動だったことを思い出します(汗)

そうそう小学校の頃、住吉くんちの御神輿を担いだのもいい思い出ですね。
なんせ重い、だんだん重くなって、「うしろちゃんと持って」、「まえがもっとらんやろうが」などと素晴らしい言い合いに発展することもありました。お賽銭~♪お賽銭♪~いいことがありますよ♪~なんて役回りの時が担いでいるときより余程楽でしたね(笑)
今もそのとき住吉神社からもらった手ぬぐいは残ってます。スイスロールは食ったので残ってませんが(笑)

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そうそう住吉といえば三菱兵器住吉トンネル工場があったことを忘れてはなりません。
そういいながら西浦上小学校時代は習った記憶がありません(汗)
三菱長崎兵器製作所の疎開工場として住吉、赤迫間に6本のトンネルが掘られ24時間フル稼働で魚雷部品を作っていたようです。
ちなみに魚雷だけは当時93式酸素魚雷があり世界最高水準であったことを記しておきます。
また魚雷工場の話として聖母文庫の「長崎オラショの旅」で作者が当時の経験などを書かれており大変参考になります。

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写真のようにこの三菱兵器住吉トンネル工場ですが1年に数日だけ奥まで開放されます。
興味がある方はぜひいらしてください。
ちなみに黒い怪しい影はたぶん私の影なので心霊写真ではありませんので悪しからず。。

このトンネル工場の周辺で原爆により行員や学徒、挺身隊、朝鮮の方など沢山の方が亡くなられた事実を忘れてはなりません。
核兵器、原発、大反対!

核の平和利用、まして核武装なんてありえません。まして日本にその管理能力や資格すらないことは明らかです。
被爆国であり、原発事故を起こした日本が核兵器禁止条約に賛成できない姿は恥としかいいようがありません。。




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