長崎港最奥岬だった多々良崎 浦上淵村竹ノ久保郷多々良崎 

多々良崎と聞いて市内のどこにあるかすぐわかる方は、たぶん少ないことでしょう。
住所改変で失われた地名だからです。

それにしてもいい地名です。長崎市内にタタラ系の地名があったのが新鮮です♪

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こちらは2010年の多々良崎附近空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。
上方向が住吉方面、下方が長崎港方面になります。浦上川にかかる一番下の橋が梁川橋で橋を渡った場所(右側)にブリュックホールやその右下には大きなココウォークが見えます。浜口のアパート群から画像の下周辺までの平地部分がちょうど浦上新田のあった場所です。

たぶん近くで写真撮ったことがあると思ったで探してみましたが発見できませんでした(笑)
まぁ~女子高の近くでもあり、撮りずらい場所かもしれません、誤解されても困りますからね(笑)
元々場所は活水下よりちょっと長崎港よりの場所付近と推定されます。
この場所が分かったのも、「復元被爆直前の長崎」のお陰です。

多々良崎と書かれた場所が浦上淵村竹ノ久保郷多々良崎の位置です。場所は長崎港の最奥部、対岸が浜口なので間違いないでしょう。
近くには稲佐側に、稲佐崎(旭町桟橋附近)、鵬ヶ崎(稲佐橋附近)と岬が続き、その最後、最奥部の岬が多々良崎だったようです。浦上川を挟んで対岸には1730年代には埋め立てられた浦上新田に因んだ弥治兵衛開と内開の地名が見られます。きっと干拓に貢献された方のお名前に因んだ地名と思われます。弥治兵衛開なんていい地名です。路面電車の電停が弥治兵衛開だったらなんと素敵なことでしょう(笑)突然時代が戻ったような感覚になるかもしれません♪

さてこの多々良崎ですが残念ながら伊能忠敬の測量日記には出てきません。そう日記が書かれるのは1812~13年、浦上新田の完成後ですのでこの多々良崎は地名としては残されていましたが伊能が訪れたころは海に面した岬ではなく、見た目には川岸になってしまったので直前の場所付近で折り返す形になったのではと推定されます。

そういうわけで浦上新田の干拓が始まる1710年ごろまで遡れば岬らしい地形の多々良崎が見られたと思われます。確かにあの辺高台になっているので昔はそれなりの岬だったのかもしれませんね。

さて地名の由来ですがタタラといえば、製鉄の場所、昔はこの附近から採れる砂鉄などから製鉄をする場所があったのかもしれません。もちろん多々良姓の有力者が住んだことに因んだ可能性もありますがこの姓ももとは製鉄関連の姓ですのでこれ以上考察しても鶏と卵になります。

今日は長崎港最奥部にあったと思われる岬 多々良崎のお話でした。
もし活水が改名するなら多々良学院がいいのではなんて妄想します。ちなみに多々良学園は存在します。

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