六枚板(西浦上村木場郷 六枚板) 斎藤茂吉ゆかりの湯治場は歴史の宝庫♪

読書の秋、GO TO ハウスな私はいろんな本(漫画含む)を読んで楽しんでおります。昨日はインフルエンザの注射しました。これでコロナ対応もばっちしです(うそ)、朝ドラエールもまもなく終了のようですがドラマのお陰で再読していた如己堂随筆には木場郷藤ノ尾の地名とともによく出る地名があります。その地名が藤ノ尾のお隣にある六枚板です。

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西浦上に住んでいた私も六枚板地区を知ったのは高校生か大学の頃だったかもしれません。長崎バスで夕方なぜか1本だけ運行されていた川平行きがある時から川平六枚板とか川平六枚板入口の方向幕を出していたからです。わざわざ長くしなくてもと当時は不思議に思いつつも六枚板というインパクトのある地名の存在を知ることができました。

さてこの六枚板、意外というと失礼なのですが歴史の宝庫みたいな場所で、知れば知るほど興味深い地であります。まず永井隆先生の如己堂随筆によれば、ローマから帰った支倉六右衛門(常長)の家来が信仰を守るため仙台から抜け出して潜んだところとの記述があります。支倉常長といえば伊達政宗の家臣で慶長遣欧使節団でローマまで行ったお方ですがその家来が真偽は不明ですが、あるいは六枚板のキリシタンや集落自体の起源になるのかもしれませんね。言い伝えと思いますが興味深い話です。

また永井先生の記述では六枚板には火傷に効く冷泉が湧き、斎藤茂吉の歌集「あらたま」をこの湯の宿で編集したという記述もあります。斎藤茂吉といえば、山形出身の医者にして歌人、永井先生同様に医者と文筆業をこなす方が湯治するほどの宿があったとは本当に意外でした。今でも六枚板温泉でもあればよかったんでしょうがね。永井先生もご家族で週末に泊りに来ることがあったようです。永井先生は違いますが支倉常長、斎藤茂吉と長崎で東北ゆかりの地は珍しいですね♪

ところで永井先生の如己堂随筆ではこの六枚板に金鉱があったとの記述もあります。確かにこの地区に金鉱があったことは私の持っている別の本に大村郷村記に元禄6年に金山の採掘が六枚板と乳母(現在の女の都)で行われたとの記述があります。また如己堂随筆では金鉱はちょっと掘りかけて20年前に廃坑になったとの記述も見られ大正ぐらいまでは細々ではあると思いますが川平金山として採掘されていたようですね。実際隣の川平郷には金山平という地名もありますしね。

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上記写真は2010年に撮影された西浦上村木場六枚板附近の空中写真です。、「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。画像左方向が長崎市内方面、上が長与方面、右が犬継、恵の丘方向になります。①付近が永井先生所縁の第11医療隊救護所附近、②は長崎バス川平六枚板入口バス停になります。三宝橋文字下付近に長崎バスのバス停があります。三宝橋より上方に向かう道が長与方向へ向かう峠道です。

さてこの歴史の詰まった六枚板ですが金山の坑口もあるようで詳しくは「みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行」の川平金山に詳しく出ています。またみさき道人さんのブログでは六枚板の地名の由来について以下のような記述があります。

長崎市立博物館平成17年3月19日「長崎学史跡めぐり(6) 西山街道を行く(2)」の資料による説明は次のとおり。

8 六枚板
六枚板という地名は、大きな榎があり、合戦のときその木から楯用として6尺の板が6枚取れたことから地名になったという。「みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行」より引用

私自身もこの興味ある六枚板の地名について考えてみました。尚、伊能の測量日記には出てきません。六というには仏教用語にもよく出てきますが、ここはキリシタンゆかりの地なので除外します。谷や崖の地形であることを考えると六枚板の板は崖を意味することからつけられた可能性はありそうです。六枚の枚部分は前の転訛や当て字で枚になった可能性もあり、前が板のような崖になった地として前板、そして六右衛門さんゆかりの地として密やかに頭部分に六を冠した地名にしたなんてことを私は考えてしまいます。

どうしてこんなことを考えるかと言えば、楯用として6尺の板が6枚なんてどこの山奥にもありそうですし、そんなこの地が合戦にあけくれたよな地にも思えないからです。いかにもありそうではありますがこれも一つの説に過ぎないように私には思えます。いずれにせよ六枚板の由来ははっきり分かりませんが、歴史の詰まった興味深い地であることには変わりありません。今日は三ツ山にある六枚板のお話でした。

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