大浦(戸町村大浦郷) 長崎八景の一つ大浦も現在は川状態

今日は国宝大浦天主堂のある地名、大浦を紹介したいと思います。私は大浦近くの籠町の病院で産まれ、家族は私が産まれるまでは大浦にある社宅に住んでいたそうです。何でも私が産まれると生活上狭くなるため西浦上に引っ越ししたそうです。あと少しで大浦育ちになる可能性があったかと思うとちよっぴり残念です(笑)

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写真は、川状態になった現在の大浦、なんとなく今も船があるので海だったことを感じさせるので私は好きです。路面電車の撮影地としてもいいかもしれません。長崎の路面電車も海とコラボなんて現在は埋め立てで昔のようにはいかないですからね。

そういえば、小さいころ、たまに大浦にある逓信病院へ行ってました。帰りによく大浦の市場に行って元気漬というごはんのお供買ってもらってました♪それから皿うどんの太麺を中華街で食って帰るのが定番だったことがありました。今考えると、病気が軽い時は近くの病院で重そうなときは大浦の逓信病院へ行っていたような気がします。今でも浣腸されたときの痛さや病院から見える孔子廟やどでかい耳糞が出て看護婦に驚かれたことなどよく覚えています(大笑)

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大浦にある松ヶ枝埠頭、当たり前のように豪華客船が来るようになり、なんか港町長崎らしくていいなぁと個人的にも嬉しかったのですがコロナの影響で今後どうなるのか心配でもあります。また昔のような光景が見られるようになることを祈っています。

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夜の松ヶ枝埠頭、夜の出航ってなんだか浪漫を感じます♪本当は見送る方でなく見送りを受けるほうになってみたいものです、なんせ上級国民ではないので無理ですが(笑)

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こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。当時の地図を見れば大浦が現在と違い、文字通り大きな浦になっていたことが良く分かります。地名の由来も大きな浦が由来で間違いありません。伊能大図にも大浦の記載はあり、測量日記にも大浦の記載はあります。大浦からは戸町村になり大村藩領となるため大浦番所があったことも記されています。大村郷村記には77軒の浦百姓や大浦湾東岸に集住していたこと、天草や五島の他、各地からの来往廻船で賑わい大浦船津とも呼ばれたことなどの記載があります。江戸期には長崎八景の一つとして詩歌の題材にも使われたようです。大浦自体の歴史は割と古く鎌倉時代の文献から見られる地名です。

そんな大浦が幕末に大きく変容します。黒船の来航で開国を余儀なくされ、安政6年(1859年)より外国人居留地のため大浦の埋め立てが始まり、その後も大浦周辺の埋め立ては続き現在の状況になっています。ちなみに安政5年(1858年)に安政の大獄があった翌年から大浦の埋め立てが始まっています。

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大浦の居留地といえば、もちろんグラバー邸が有名ですが海岸部に市民の反対でからくも残った香港上海銀行を忘れてはなりません。

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大浦の一番外側(松ヶ枝橋)からみた長崎港、海辺の森公園ができ、当時とすっかり変わりましたが、帆船祭りがあるとこちらも賑わいます。現在も長崎八景のひとつに選ばれても遜色ない大浦からの風景です。

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大浦に残る昔ながらの店舗、大浦天主堂やグラバー邸もいいですが、こんな瀟洒な建築物もゾクゾクします(笑)

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上記写真は2010年に撮影された戸町村 大浦郷(長崎市大浦町)附近の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。当時は現在の石橋電停付近が一番湾奥で、南山手と東山手の平地の殆どが海(大浦)だったと考えられます。梅中から南山手の下あたりまでは海だった可能性が高そうです。

今日は長崎市の大浦のお話でした。

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