画像の手前にある石橋が1653年建造の一ノ瀬橋で、江戸期には「市瀬晴嵐」として長崎八景のひとつに選ばれています。地名の由来になった蛍茶屋は一ノ瀬橋を渡った右側奥(電柱の右側)にあったようです。伊能大図には出てきませんが測量日記には一ノ瀬橋、字喰違の地名が記載されています。江戸期のこの附近の地名は喰違だったようで、恐らくは橋を渡った後、(長崎方面)長崎街道が直角に曲がっていることがこの喰違(くいちがい)の由来になっています。決して茶屋で出された料理に関した由来ではありません。ちなみにヒロスケ長崎のぼりくだりでは、この喰違を蛍茶屋電停附近の北側の直角道としています。
路面電車の終点がもし、喰違といった実に渋い行き先だったり、一ノ瀬といった可能性もあったように思えますが、蛍茶屋というなんとも素敵な響きが日本人の好みにあったのか、長崎街道の別れ宴の人情があったお陰か長崎市民には地名として蛍茶屋はしっかり親しまれています。私も勿論この蛍茶屋の地名が大好きです。
ちなみに個人的にも高校時代はいつも通学路でこの一ノ瀬橋を渡って路面電車に毎日乗っていました。本当は長崎バスが好きなのでバス通学が夢でしたが(大笑)
写真は一ノ瀬橋から蛍茶屋電停方向、まさに私の懐かしき通学路、当時よりなんだか寂れた感がいっぱいでした。もちろんこの通りが小倉を出発地点にした長崎街道で、まもなく終点であり長崎への玄関口といった感じでしょうか。ちなみに長崎街道の終点(起点)は桜馬場付近と言われていますが諸説あるようです。
当時は蘭学を中心に長崎遊学に憧れた方もかなりいたことでしょう。さて蛍茶屋の由来ですが、もちろん一ノ瀬橋の横にあった茶屋(料亭)が由来です、甲斐田屋さんの別名が蛍茶屋で、別に流蛍舎といった呼び名もあったようです。初代甲斐田市左衛門によって始まられた茶屋で6代まで続いたようですので現在はもちろんありませんが結構長い間続いたようです。この茶屋付近の一ノ瀬川が蛍の名所だったことから蛍茶屋と呼ばれ現在地名として市民に愛されています。
場所的にも街道の玄関口にあたることや、やっぱり蛍がいたことが茶屋の繁盛にも繋がったことでしょう、もちろん蛍が1年中いるわけではありませんが期間限定というところもまた魅力のひとつだったのではないでしょうか。それぐらい仄かな光を放つ蛍はとても魅力的ですので茶屋名や地名になればまさに知名度も上がる結果が、長崎市民に現在も親しまれる地名としての蛍茶屋のような気がします。
写真は蛍茶屋行きのチンチン電車、当たり前に撮っていると思った蛍茶屋電停の写真が見つからず(大笑)、急遽場所的に関係ない赤迫電停で撮った、蛍茶屋行きの写真でご勘弁ください、一応雪景色で2号系統という珍しい組み合わせです。通常2号系統は深夜だけでしたが、脱線事故の影響でしばらくの間、3号系統が運行できなくなり2号系統で代用した時期がありましたね。
今日は長崎市の蛍茶屋のお話でした。
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