
浦上天主堂のある現在の長崎市本尾町は浦上山里村の里郷にある字からきています。浦上街道からは外れた場所にあります。伊能大図や測量日記には里郷の記載はありますが本尾の記載はありません。江戸時代は幕府領で天主堂のあった場所には高谷家の庄屋屋敷があったようです。隠れキリシタンの里の庄屋さんなので何かと大変だったことでしょう。
明治になりキリシタン弾圧がありましたがその後、宗教の自由が認められ1914年に地域住民の手で浦上天主堂が建てられています。当時は東洋一と呼ばれましたが原爆で倒壊し、1959年にコンクリートむき出しのような武骨な天主堂でしたが1980年に当時を模したようなレンガスタイルに改められ現在に至っています。
原爆さえなければ、大浦天主堂に負けない建造物として重要文化財になってもおかしくないと思いますし、歴史にもしもはありませんが、被爆当時の姿が残されていれば原爆ドームに負けない被爆遺構として世界遺産レベルの平和の象徴的シンボル、カトリック教会だったことを考えれば西洋への核兵器の恐怖の伝導や26聖人と並ぶ巡礼地としての役割も担えたような気がします。勿論、当時の住民感情や何より信者の意思の尊重を考えれば現在の形が一番いい形だったのかもしれません。
西浦上の高台に住んでいたこともあり、実家からは浦上天主堂の上の棟部分は見えていました。ただ電車通りでないこともあり、あまり浦上天主堂付近に行った記憶はありません。最近も「ふくの湯」の送迎バスで通ったくらいでしょうか(笑)
ただ小学校の遠足で浦上天主堂下にある天主公園に何度か行った記憶があります。特に小学校1年生の初めての遠足場所がこの天主公園でしたので断片的にですが記憶が残っています。
再建された天主堂もレンガ造りで風格があるのでこのまま数百年もてば文化財になるレベルの美しい天主堂と思っています。山口のサビエル記念聖堂のように再建され、なっ何これと変化に驚かなくてすんで本当に幸いでした。

浦上天主堂、こんなモーメントブルーな時間がとっても素敵に思えます。そうそう、カトリックではないのであまり縁などあるはずもない私ですが高校の頃、カトリック系の学校だったこともあり、一度浦上教会でミサを受けたことがあります。そのときの聖歌隊の歌声のレベルの高さにとても感動しました。このまま酔いしれて入信してもいいかなぁ~ぐらいのレベルでした。結局入信することはありませんでした。きっと入信して真面目で美しい信者との出会いを妄想した下心を神に見透かされたためかもしれません(笑)

長崎の観光地はだいたいが路面電車で行くことができますが、浦上天主堂はそれなりに離れているので、8番系統の長崎バスを利用したほうが便利かもしれません。よく考えればこの路線、元は電鉄バスの路線だったと思います。
さて、最後に地名の本尾ですが、恐らくは麓の尾にあたる部分からきた地名と思われます、麓の「ふ」が時代とともに略されて「もとお」となったのでしょう。地形的に見て十分に説明ができる場所にあります。山手から続く尾根の先端部分で当然、麓の場所にある本尾です。
今日は浦上天主堂のある浦上山里村里郷 本尾のおはなしでした。
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