宮本(西浦上村東北郷 宮本) 住吉神社ゆかりの地

長崎市北部の中心地、住吉にある社が住吉神社、住吉の地名の由来は江戸時代初期1630年代には存在していた大村藩領浦上北村の鎮守社、当時は住吉大明神と呼ばれた住吉神社が由来と考えてよいでしょう。当時は以外にも修験道が管轄していたというのは興味深いところです。

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写真は住吉のアーケードより住吉神社方向、奥のほうに住吉神社の鳥居や階段が写っています。神社階段下を左右に通る道が旧浦上街道になります。もしかすれば存在するのかもしれませんが、今のところ、この住吉神社の江戸期の文献以前のこの界隈のことが分からないことが残念なことです。もちろん今と違い、ぽつぽつと農家が見られる程度の村だったことと思いますが、有馬氏の焼き討ちやキリシタンの焼き討ち前は岩屋にあったとされる神通寺に関連した別坊があったのではなどと妄想してしまいます。

伊能忠敬の測量日記にも、六地蔵や中通り、東(恐らく東北郷のこと)、西(恐らく西北郷)の記述はありますが、住吉神社や宮本の地名は残念ながらスルーされているので、今と違って拾い上げるほどの地ではなかったことが分かります。

さて宮本の地名ですが、今ではというか私も今まで聞いたことがなかったので字名廃止とともに、今では殆ど忘れ去られた地名かもしれません。地名の由来は、恐らく宮のある麓から当て字で宮本となったと考えられます。宮本のあった場所は写真のアーケードから神社一体と、写真左側に戦時中あった三菱兵器住吉寮の一角が宮本になります。

住吉神社といえば住吉くんち、当時は10月10日11日の2日間で、私も一度、とっても重い御神輿を担いで、前と後ろの持ち手で「ちゃんと持て、重かやろうが」「そっちこそ、ちゃんと持っとらんやろうが」などと言い争いをしたり、「お賽銭~♪、いいことがありますよ~♪」などと寝言を語りながら賽銭箱を担いだ記憶があります。

そんな住吉くんちも商店街と神社との決裂?で今では住吉まつりとなって神社とは関係ないくんちとも名乗らないある意味、長崎らしくない状態になっています。私は知人もいるので、もちろん住吉商店街を応援します♪、決して神輿を担いだお礼にもらったスイスロールや手ぬぐいで買収されたりはしません(大笑)とはいえ、時間が解決してくれて住吉くんちに戻ってほしいとも思います♪

あと神社付近ではよく、友人とケイドロ(警察泥棒ごっこ)をした記憶があります。神社裏の森でよく遊んでいました。あの森にはなぜかエロ本もよく転がっていてたまに視線が行きましたね(笑)、当時はビデオもDVDもない時代ですが、あんな場所であんな本を見るというのは、ん~~微妙というか寂しいというか。。。寒い時代に感じます(笑)

この写真のアーケード沿いは住吉くんちの時は、出店も両側に並んで賑やかでしたし、奥にある公園ではイベントなんかもやってましたね。この周辺でお世話になった店は神社下(写真の鳥居下右)にあったケーキのメルヘンさん、さだまさしさんも利用していた店で有名でしたね。でもうちはどちらかといえば、電停の近くの写真でいえば手前の食堂みかど(閉店)さんのすぐ隣にあったエーワンのレモンパイが大好物でした。あとは神社下近くにあった熱帯魚屋さん、近年まで建物は残っていましたがとうとう跡形もなくなりました。この熱帯魚屋さんの熱帯魚は癒されましたね、私にとっては熱帯魚屋さんが水族館であり、エーワンの近くにあったペットショップが動物園の代りでしたね。

あとは今もある三八ラーメン、近くを通ると独特の香りがして、3月8日に賑わうお店に友達と2人で入り、本当にこんなお金で食べられるのかドキドキした記憶があります。あとは高級ケーキ屋のイタリアントマト(イタトマ)がありましたね。旨そうだけど値段を見て驚き、やっぱりケーキは安か西銀でよか、などと思ったものでした(大笑)、今でもいろんな思い出があるこの界隈です。

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上記写真は2010年に撮影された西浦上村東北郷(長崎市住吉地区)、画像宮本文字下あたりが住吉神社になります。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。

今日は住吉くんちのあった界隈 西浦上村東北郷 宮本のおはなしでした。

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