弥治兵衛開(浦上山里村里郷 弥治兵衛開) 浦上新田功労者?

今では浜口町と呼ばれる一角に昔は弥治兵衛開というなんともお洒落な地名がありました。
恐らく浦上新田開発前は長崎港の最奥部でしたので海が広がっていたことでしょう。

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場所は浜口町のバス停付近一帯、長崎市内から平地が続きますが国道で住吉方面へ向かうと浜口町から松山へと向かうカーブから急に緩やかな坂になるので坂の部分の入り口が浜になっていて、浜口から浦上駅方面の平地は海だったことが長崎に住んでいる方にはなんとなく分っていただけるかもしれません。その広かった長崎港も江戸期の1730年代後半に完成した浦上新田(銭座町電停附近より浜口電停付近までの平地)で大きく変貌しています。伊能大図や測量日記には浦上新田の記述はなく、浦上山里村里郷の記述はあります。

最近、周辺にある電停は浜口町から観光客向けに原爆資料館に変更されましたが小さくでいいので(弥治兵衛開)なんてあると歴史や地名好きにはもっと嬉しいし、観光客だって気になる方もいるかもしれません(笑)弥治兵衛なんて聞くと私は思わず長曾我部氏の家臣だった桑名弥次兵衛を思い出しますが、流石に長崎の弥治兵衛さんは??です。もしかしたら沢山の長崎関連の文献を見れば出てくる可能性もありそうですが現段階では残念ながら分かりません。

ただ弥治兵衛開(やじべえびらき)という地名を考えれば開はまさに開墾地や干拓地などに使われる地名ですので、場所が浦上新田の末端であることを考えれば間違いなく浦上新田開発の功労者であることは間違いないでしょう。今は住宅地で田んぼすらないので想像することは難しいことも事実ですが、長崎が発展せず田舎のままで現在も田んぼが残るような場所だったら今でも地名として残っていたかもしれません。

それにしても個人名の弥治兵衛の地名が市内に今も残っていたら歴史好きの私はきっと浪漫に浸りそうです(笑)
ちなみに長崎バスには市内に(琴海町)又兵衛なんてバス停がありますが、浜口も弥治兵衛なんてバス停名に改称したら面白いと思います♪

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今では新しいマンションになりましたがこの周辺、昔は三菱のアパート群がありました。

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上記写真は2010年に撮影された浦上山里村里郷 弥治兵衛開附近(長崎市浜口町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。

今日は浦上新田開発にきっと貢献されたであろう弥治兵衛さんに敬意を表し弥治兵衛開のおはなしでした。

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