西北(西浦上村西北郷) 岩屋山をバックに長崎旧線走るキハ200

JR九州からの発表で大村線からキハ200と220が21年3月11日で転属するようですが、転属するということは長崎旧線を走るものあとわずかということです。今日は長崎市内西北地区を走る列車の写真です。

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岩屋山をバックに西北地区を走るキハ200、岩屋山バックの写真は珍しいかもしれません。ちなみにざっくり言えば線路より西は西北地区になります。(中園周辺は線路を超え東側も西北地区)ちなみに岩屋山や葉山周辺は岩屋郷になります。

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こちらは赤迫方面から撮った岩屋山をバックに走るキハ66:67(今はなくハウステンボス色)です。きっとこれからも撮影名所になどなることはないと思いますが、行くには地獄のような坂を登らねばならないことを記しておきます。

さて西北といえば、西浦上の住民の私にとってはお隣さんのイメージですが学区が違うことや、線路があることもあり、中園地区にあったアサヒショッパーズまではよく行きましたがそれより先は殆ど縁のない場所でした。

東日本大震災や原発事故で被災し一時的にですが5年ほど赤迫に住むことがあり、選挙の投票のため西北小学校へ行ったことがありました。見た目には近くにあった西北小ですが赤迫から山を下りまた上って投票に行くのは、平地に住み慣れた私には地獄のようでした(大笑)

地名の西浦上村西北郷ですが、江戸時代は伊能忠敬の測量日記を見ると浦上北村本村に西と東があることが記されています。恐らく江戸時代は大村藩領の浦上北村の西が現在の西北地区に該当します。ちなみに伊能大図には浦上北村・西の記載はありますが場所的には浦上西村の位置であり誤記載の疑いがあります。
江戸時代、浦上街道を境にして浦上北村の西側を西、東側を東とそのままですが呼んでいたのではと推測できます。また大きく浦上村をさして街道より西側を浦上西村を含め一般に西と呼んでいた可能性はありそうです。(昔はそんな人家があるわけでもなく、困ることもなかったと思われます。)

明治5年になり西町周辺にあった浦上西村や浦上北村、浦上木場村、浦上家野村、滑石村などが合併され、西浦上村が形成された際に浦上北村にある西と浦上西村にある西とを区別する必要性が生じて北村にある西なので西北となったのではないでしょうか。逆に言えば、江戸時代までは浦上西村の西も浦上北村の西も同じように扱われたり問題も生じず普通にどちらも西で通用していた可能性が高いかもしれません。

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こちらは明治34年陸測図「長崎」(今昔マップ on the webより)
貴重な明治の西浦上村地図、長崎本線を境に西側に西北、東側に東北、また地図上には以前紹介した、山浦堤や宮本の地名が見られます。

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上記写真は2010年に撮影された西浦上村 西北郷(長崎市西北町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。

今日は西浦上村西北郷のおはなしでした。

昨日の南太平洋でおきた大地震、次はまた福島か宮城沖かと非常警戒態勢です。正直もう先月のような大地震は経験したくありませんがまだ私は経験しなければいけないようです。個人的にはもう2週間以内におきそうな時間の問題と思っております。なんだか悪い判決を待っているような、なんとも言えない気分です。

本当は、こんなときこそ安全な長崎にでも避難できれば最高なのかもしれませんが、仕事も家族も家もありますし、コロナもあるし、世の中甘くありません。今はなるべく大事なものは2階にあげたり、2階からの脱出用靴、ゴム手袋(家族分)の用意などもしました。あとは被害が家族を含めできる限り少なくて済むことを祈りますが、これから年単位で大地震警戒しないといけない気がします。

もちろん心配だけで終われば最高です。防災意識を高めることにはなります。


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