この界隈、近年長崎バスも矢上方面に進出したのも時代の変化を感じますが、私には何と言っても国道の4車線に時代の変化を感じます。よくもまぁ~4車線化ができたものだと。。。番所と言えば、江戸幕府が交通の要所に番人を置いて徴税や外国船の監視などを行うための建物といった認識があり、当然この本河内にある番所もそういった類のものだろうと以前は勝手に思っておりました。
しかし、よく考えれば日見峠に関所がありますので、ここに番所がある必要はありません。確かに伊能忠敬の測量日記にも番所は出てきません。この番所については山口広助氏の「ヒロスケ長崎 のぼりくだり」に詳しく記載があり、明治17年8月より5年ほどですが民間会社が請け負った分の建設費償還のため日見新道の料金所が本河内のこの地と日見に置かれ、馬車は5銭、通行人一人で5厘といった感じで料金を徴収したようです。付近の住民には無料パスのようなものが配布されたのは当然の配慮かもしれません。
こちらは番所バス停、この周辺に日見新道の通行料を払うための番所(料金所)があったと考えられます。ちなみにここから彦山方面にすすめば、聖人コルベ神父ゆかりの本河内教会やルルドがあります。
さて番所自体は例えば石橋と同様に停留所名としては残っていますが住所的には小字にも存在しない地名です。それでも停留所名として残ったのは恐らく同じ交通に関係することからかもしれません。さてなぜ江戸時代が終わり明治時代にも関わらず番所なのかですが、恐らく日本最初の有料道路ということから考えても、まだその頃には料金所みたいな日本語自体が存在せず、そういう類はすべて番所と呼んでいたいたのではないかと考えられます。
料金所より番所の方が日本語自体短いので案外、未来には西彼杵自動車道、長浦番所(料金所)付近で渋滞なんて変化するかもしれません。今日は日見新道の料金所だった本河内にある番所のおはなしでした。
この記事へのコメント