写真の観光丸の後ろが出島岸壁(出島ワーフ)でその後ろのJAのビル辺りに国鉄長崎本線長崎港駅がありました。駅部分はビルになった影響で痕跡はありません。それでもここに今も長崎港駅があったら、海に面したきっといい雰囲気の終着駅になっていたのでは。。などと妄想が膨らみます。
なんといっても期間は短かったとはいえ、長崎港駅は大陸への玄関口だった駅であることは間違いありません。もともと上海航路(日華連絡船)の接続のため長崎駅より延長され昭和5年3月19日開業した駅です。戦時中の一時期には特急「富士」が上海航路の連絡船(長崎丸・上海丸・神戸丸)が長崎入港時には長崎港駅発東京行きの列車として運行されています。
戦争がなければ、などといっても仕方ありませんが、戦争がなければ鉄道の地位が下がったとはいえ随分違う運命を辿ったような気がします。もしかしたら現在も上海航路はなくとも五島航路などの鉄道連絡船の駅として機能していたかもしれません。
似たような駅といえば、最北の宗谷本線稚内駅を思い出します。あちらは樺太(現在のサハリン)との稚泊連絡船(稚内~大泊)のための乗り継ぎ駅で当時は稚内港駅(わっかないみなとえき)と名乗り、構内扱いで正式な駅ではありませんでしたが、稚内桟橋駅がありました。
こちらは稚内桟橋駅のあった北防波堤ドームです。こちらも長崎に負けずとてもいい雰囲気の場所です。北の果て西の果て、どちらも歴史に皮肉か似たような歴史を辿っています。
上海航路は大正13年から昭和18年まで週2往復で上海まで26時間ほどで結ばれていた航路でした。長崎丸、上海丸に加え、昭和15年に神戸丸が3隻目の連絡船として就航していたことを考ええると当時の賑わいが想像できます。それにしてもこの3隻の連絡船いずれも悲惨な形での最期を迎えています。
長崎丸は昭和17年5月に伊王島沖で日本軍の敷設した機雷に触雷し沈没し死者13名行方不明26名を出しています。人数から考えて旅客なしの回送状態だったようです。また新造船の神戸丸(長崎造船所建造)は同年11月に揚子江口で日本の貨物船と衝突し沈没、最後に残った上海丸も昭和18年10月揚子江口で日本の輸送船と衝突し沈没と、戦争中でありながら同じ国同士の不慮の事故で沈没しています。結局このまま上海航路は自然消滅し、長崎港駅も運命同じく旅客駅としての役割を終えています。(貨物駅としての機能は昭和57年3月まで存続、正式廃止は昭和62年3月)
稚泊航路は上海航路より1年早い大正12年5月から敗戦の昭和20年8月24日まで運航されています。こちらは幸いにも連絡船の沈没はありませんでしたが昭和20年8月のソ連軍の南樺太侵攻のため運命が大きく変わりました。樺太は日本からソ連領になりソ連軍の通達まで避難民の輸送に従事しましたがその後航路も休止状態となり自然消滅しています。
どちらも戦後の平成の一時期、航路が復活しましたが現在は無くなっているのも似ています。上海航路の歴史を考えれば一度しっかり厄払いをしないと今後の航路の復活も難しい気が個人的にします。
戦後の上海航路は平成6年と24年に運航されています。24年のオーシャンドリーム号はたまたま写真に撮っていました。ハウステンボスもそれなりに力を入れてましたが残念ながら短命に終わりました。
ちなみに上の写真のように長崎港駅手前にあった中島川にかかる橋梁跡には動輪や記念碑が残されています。場所はリンガーハットの中島川方向です。ゆめタウンの買い物帰りにでも気軽によれる場所です。長崎駅からも1.1Kほどしか離れていません。廃線跡は元船遊歩道として散策できるので駅から廃線跡を楽しむのがお勧めです。
ちなみにこの中島川にかかる鉄橋ですが映画「男はつらいよ」シリーズの五島が出てくる第6作純情編にさりげなく蒸気機関車の走るシーンで使わていて、いたく感動した記憶があります。(間違ってたらごめんなさい)
こちらは昭和9年発行の陸測図です。昭和5年3月19日開業の長崎港駅もしっかり掲載されている貴重な地形図です。右読みの地図が時代を感じさせます。ちなみに長崎市の市の下部分に長崎港駅があります。
こちらは昭和31年発行の地形図「今昔マップ on the web」より、戦後になり線路はむしろ大浦方面に延長されていますが長崎港駅の標記は消え、出島岸壁の文字に変わっています。
上記写真は1975年に撮影された長崎市羽衣町(長崎市出島町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用、まだ貨物駅として長崎港駅が機能していた時代の空中写真です。長崎港駅文字左が長崎港駅付近です、大波止附近の埋めたても進んでいません。
上記写真は2010年に撮影された長崎市羽衣町(長崎市出島町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用、長崎港駅文字左が長崎港駅跡附近(現JAビル)になります。現在の形に近く大波止地区の埋め立てがすすみ、長崎駅横も現在の県庁予定地として埋め立てられています。
さて長々となりましたが地名の羽衣町について、こちらはもともと明治後の埋め立て地で江戸時代は出島近くにある海でした。長崎港改良のため明治30年代に埋め立てられ明治37年に羽衣町が生まれています。羽衣町の地名の由来は町内に出島岸壁が作られ将来の発展を願って羽衣町となったようです。その羽衣町も上海航路や長崎港駅と運命を辿るように昭和39年出島町に吸収されています。
今日は長崎港駅のあった羽衣町のおはなしでした。
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