平戸小屋(浦上淵村平戸小屋郷) 平戸松浦藩ゆかりの地

長崎の村に最初にできた6町のなかにも出てくる平戸(平戸町)、残念ながら長崎市の暴挙のため昭和38年に万才町にされてしまいしまた(涙)もし開港450年を祝うならまず歴史的にも町名復活を願いたいものです。そんななか孤軍奮闘で江戸期からの長崎市で平戸の名前を守り続けているのが今回紹介する平戸小屋町になります。

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平戸小屋町から眺める長崎港、稲佐山の中腹に近い高台にあり見晴らしはとてもよく、長崎港が見渡せます。江戸時代だったら出島や長崎奉行所の西役所(県庁跡)などもよく見えていたことでしょう。長崎らしく傾斜地に家がびっしりあり網の目のような細い道が多い地域ですがさんぽにはお薦めの場所です。

平戸と言えば、私は海賊の松浦党が目に浮かびますが、長崎にある最初に作られた7か所の台場は1655年に平戸藩が築いたものです。そんな長崎とも縁が深い平戸地名が長崎に残っているのは個人的にはとても嬉しく好きな地名です。

さて平戸小屋の地名ですが元禄郷帳に記載があることから元禄期(徳川綱吉)の頃には地名が存在しています。また郷内に円丘(まるお)と呼ばれる景勝地があるとの記載があります。ちなみに旧平戸小屋郷内には丸尾中学校があります。稲佐六景にも選ばれた景勝地なので港を眺めながら茶屋などもあったことでしょう。

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丸尾町の海岸付近から見た平戸小屋地区(三菱電機工場のうしろ)、いつのまにか県営バスの車庫ができていました。平戸小屋ですが伊能大図にも記載され、測量日記にも平戸小屋郷、左の小山上は平戸陣所跡、今は塩硝蔵の記載があります。ちなみに塩硝蔵は火薬庫のことで確かに稲佐には元禄時代、稗田浜にあったようですが1765年に御船蔵に引っ越ししているので間違いかもしれません。

また長崎名勝図絵には「丸尾、樹木の生い茂った丘の姿から名があり昔、陳氏の別荘、今は平戸候の陣所で平戸小屋と呼ぶ」との記載があります。平戸藩の長崎屋敷は今の長崎駅前にある大黒町付近にあるので、恐らくは長崎港警備や台場構築の際に陣所として平戸藩が使用していた小屋があったことが平戸小屋の地名の由来と考えられます。

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上記写真は2010年に撮影された浦上淵村平戸小屋郷(長崎市平戸小屋町)附近の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。稲佐山の中腹附近にあるのが現丸中で以前は麓(平地)にあったことが分かります。昔の方が通うには楽だったのは間違いないので引っ越しは生徒にとっては大ブーイングだったかもしれませんね。あんなに毎日登ると考えただけで疲れそうです(笑)

さて平戸小屋の場所がいったいどこだったのかが気になります。そのカギが丸尾(円丘)のようです。ちなみに現在の丸尾町は海岸部にあり丸尾中学校は昭和42年までは現在の丸尾公園付近にありました。丸尾公園は元丸中校庭の一部です。現在の丸尾中は旧平戸小屋郷内(現大鳥町)にあり場所的にはこちらのほうが地形的にも丸尾に近いように思えます。とはいえ残念ですが全く特定できません。

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こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。この地図で見ると随分、水ノ浦に近いのですが昔の地図ですのであまりあてにはできません。ただお隣の水ノ浦郷には小字に丸尾が存在するので(場所的には平戸小屋に接する丘部分)あるいはこちらが本来の平戸小屋のあった場所の可能性は充分ありそうです。

今日は長崎市に残る平戸藩ゆかりの浦上淵村平戸小屋郷のおはなしでした。


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