道生田(浦上淵村木鉢郷 道生田)元禄3年設置の火薬庫は難解地名

今回は江戸時代の木鉢に存在した難読地名です。道生田(土生田)との記録もある地名ですが小字にはなく、正直言って正確な読みが分かりません。どしょうだ、どしょうでんでしょうか?

008.jpg

こちらは道生田塩硝蔵のあった道生田(現木鉢双葉園)附近より木鉢浦を俯瞰、手前の下にみえる住宅地は明治までは海でした。ここからの景色もなかなかで、遠くには香焼の三菱工場や神の島にあるドンク島や高鉾島が見えます。また木鉢を走る長崎バスも見えます。

さて道生田(土生田)ですが元禄3年(1690年)に前年に西泊遠見番所付近で落雷があり近くに塩硝(火薬)があると危険なため木鉢浦道生田に2つの蔵をもつ塩硝蔵が建てられています。近くにあった西泊番所や対岸の東泊(戸町)番所のための塩硝蔵ですが、海路でしか火薬を運ぶ手段がないことや外国船から入港時に丸見えなど極めて泰平だった江戸前期を象徴するような火薬庫だったように思えます。ただ1808年のフェートン号事件で学習したのかその後は各番所近くに塩硝蔵を設置し、木鉢の道生田塩硝蔵は使われなくなった経過がありますので教訓を学習できる点では現政府より可能性を感じます(笑)

伊能大図には木鉢郷の記載はありますが道生田の記載はありません。測量日記にも塩硝蔵ありとの文字しかなく土生田の文字はありません。

009.jpg

こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。フェートン号事件前の地図のためこちらの地図標記では土生田塩硝蔵の記載があります、事件後しばらくたっていたら記載がなかったり、土生田のみであったり、土生田塩硝蔵跡となっていたかもしれません。

009.6.jpg

こちらは明治34年発行の陸測図「今昔マップ on the web」より、現在と違い、木鉢浦埋め立て前の姿が残っています。残念ながら道生田の記載はなく、周辺に建物もなく、元々無人地帯であったことが伺い知れます。

009.5.jpg

上記写真は2010年に撮影された浦上淵村木鉢郷道生田(長崎市木鉢町)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用、写真の〇部分が江戸時代の火薬庫だった道生田塩硝蔵跡(現木鉢双葉園)になります。ちなみに道生田塩硝蔵についての絵図は長崎文献社発行の「長崎絵図帖の世界」128Pに載っており、こちらの絵図と空中写真を見て私の場合は場所を特定できました。よく考えると私が神崎神社に行く際には女神から橋を渡っていつも木鉢に降りる際にここを通っていましたね(笑)

さて地名の道生田ですが地名の由来は謎です。ちなみに生田だけですと、荘園の田んぼを意味しますのでその当て字とも言えますが地形的に見ても田んぼなどあり得ない地形です。無人地帯だったことを考えると元禄3年に設置される際には恐らく地名自体はなかったのではないかと考えてしまいます。

塩硝蔵設置のために敢えて地名が役人間で必要となり、塩硝ではそのままですし、文字にする際に危険物保管所ですので場所を悟られないため敢えて火薬とは無縁の土と田の字を上下につけて場所を特定できないように配慮してつけられた地名かもしれません。あくまでも私の推論ですが。。

今日は木鉢郷にあった道生田のおはなしでした。

この記事へのコメント