阿蘇(浦上山里村家野郷 阿蘇) 消えた?長崎市の阿蘇大明神

阿蘇と言えばやはり阿蘇山ですが私の生まれ育った西浦上地区近くに阿蘇地名があったと考えると、阿蘇山など長崎ロイヤルスカイツリーでもない限り見ることは不能ですので阿蘇神社でもあったのでは頭によぎりました、そこから今日のお話が始まります。

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写真は教会管理下の阿蘇墓地、長崎というか浦上地区らしく十字架の墓が沢山あります。もちろん仏教系の墓も普通にあります。宗教の隔てなく仲良く寄り添うのがやはり見ていても親近感を持てます。昔は小字として阿蘇の地名はありましたが現在は地元の方も殆ど阿蘇地名を使う方はいれっしゃらないかもしれません。

丘の上にある墓地ですので見晴らしがとてもいい場所にあります。マンションが増えて稲佐山が殆ど見えなくなってしまったのは残念です。小学校の頃、数回ですがこの墓地で遊んだ記憶があります。カーリッチという友人(スロベニア人ではありませんし、スラブ系民族でもありません)と遊ぶ場合はここが遊び場でした。遊び場といえば、公園や広場もですが、私の子供時代は普通に墓場で遊ぶ子供が沢山いました。そういえば今は見たことありませんね(汗)

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こちらは阿蘇墓地から見た文教、本原方面、こちら側からも見晴らしがとてもいいです。以前と比べてなんだか墓が減っているような気がしました。

さて阿蘇の地名ですが、伊能大図や測量日記には残念ながら出てこない地名ですが長崎名勝図絵には記載がありました。名勝図絵では山里界隈に記載があり(もともと浦上山里村家野郷内ですので当然ですが)、阿蘇大明神祠、家野郷城ノ越にあり肥後阿蘇大明神を祭る、家野郷の鎮守で毎年郷民が例祭を行うとありました。

やはり祠とはいえ阿蘇神社があったことに納得したのですが、あの辺に神社(祠)があった記憶などありません。私の記憶違いの可能性もあり現在や明治期の地形図で確認しましたがやはりありませんでした。ただ、「復元!被爆直前の長崎」の地図には家野郷阿蘇のお隣の(昭和町側)峯地区に峯山神社があるのでこちらの神社がもしかしたら阿蘇大明神を祭る神社だった可能性があります。

ちなみに峯山神社のあった場所ですが現在は住宅地となり跡形もありませんでした。ちなみに付近には小さな峯山公園があり地名の痕跡が残されています。また江戸時代に阿蘇大明神祠のあった城ノ越は阿蘇のお隣(長大方向)ですがこちらにも神社(祠)は見落としがあるかもしれませんが確認できません。(江戸時代の頃の浦上山里村家野郷城ノ越が阿蘇や峯山を含む広い地域だった可能性は充分あります。)

付記(加筆) 峯山神社、私は見つけられませんでしたが現在も住宅街の中に残っているようです。また長崎古今集覧には阿蘇大明神が阿蘇祠として記されています。

それにしても阿蘇大明神祠(その後、それなりの小さな神社程度になった可能性もあります)はなぜなくなったのか?普通地域の例大祭もあるような神社がなくなるなんてなかなか考えずらいのですが、浦上の特殊性を考えるとある程度納得できることもあります。

それは幕末から明治6年まで行われた浦上4番崩れでの隠れキリシタンへの迫害で浦上の村人全員が全国各地に配流され、罪人として拷問を受けた悲しい歴史があります。3394名のうち662名が命を落とした事実は原爆同様、歴史としてしっかり教育していく必要性を感じます。

さて明治6年になんとか信仰の自由を得て帰村した住民を今度は原爆の悲劇が襲います。爆心地から近い家野郷も相当な被害が出たはずです。そんな2度の大きな受難の歴史がある地区の神社、しかも元々は隠れキリシタンが大半をしめる地区ですので、もしかしたら多少の信仰心はあっても神社への信仰度は他の地域よりは低いでしょうし、そもそも原爆で周辺を含め被害が大きいため神社周辺が消滅して記憶が失われた可能性もあるかもしれません。

長崎市の阿蘇、子供時代なんとなく長崎らしい墓場だと思った場所は何かと歴史を感じさせる場所でした。

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上記写真は2010年に撮影された浦上山里村家野郷阿蘇(長崎市家野町)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用、阿蘇墓地ですがチトセピアと長大の間にある丘の上にあります。

今日は長崎市内にあった阿蘇のおはなしでした。





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