
現在の大橋工場跡(長崎大学)、遠くに稲佐山も見えます。地名の浦上山里村家野(いえの)郷ですがお隣の西浦上村にも家野(よの)郷があるのでは元々、同じ家野郷が幕府領と大村藩領で分けられたため区別するため呼び方を変えたものと思われます。

こちらは長崎大学文教キャンパスの正門付近、ちなみに兵器工場時代は裏門側が正門だったようです。子供の頃は長大祭のときだけ何となく友人と出かけていました。三菱兵器大橋工場ですが、昭和14年着工でわずか3年ほどで大工場が突貫工事で完成しています。主に91式航空魚雷の生産工場だったようで海軍の航空魚雷はほぼこの91式魚雷だったようです。ちなみに米国が恐れた93式酸素魚雷は艦船用の魚雷です。

写真は飽の浦にある三菱資料館に展示されている91式航空魚雷です。

こちらは明治34年陸測図「長崎」より浦上山里村家野郷周辺(今昔マップ on the webより)貴重な明治期の浦上山里村家野郷、まだ兵器工場建設前ですので地図を見ると当時は家屋も見当たらず殆どが田んぼだったことが分かります。

上記写真は1947年に撮影された浦上山里村家野郷(長崎市家野町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。まだ敗戦から2年ということもあり大橋工場も半分ほどですが工場が確認できます。現在の付属小学校付近にあった長崎師範学校(文字上)は長崎大学教育学部の前身にあたり当地には男子部がありました。大橋工場ですが川が近い、鉄道も近くを走っている、長崎では貴重な広い平地ということもあり、工場の立地場所としては申し分ない場所です。
歴史にもしもはありませんが、長崎に大規模な兵器工場(造船所を含め)がなければ原爆の標的にはならなかった可能性は充分ありそうです。

上記写真は2010年に撮影された浦上山里村家野郷(長崎市家野町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。戦後になり大橋工場は解体され跡地に現在の長崎大学文教キャンパスが建設され現在に至ります。もちろん田んぼの田の字すらない周りは密集した住宅地として発展しています。
さて家野(いえの)郷の地名の由来について考えたいと思います、1605年より幕府領より大村藩領になった浦上家野村(西浦上村家野郷)については大村郷村記に南北朝期の家野因幡権守公平の領地が由来との記載がありますのでこちらが家野自体の由来と思われますが、家野氏がいつから家野姓を名乗り元々の出自がどこなのかは不明なため、当地に土着するようになって家野姓を名乗り始めた可能性も充分あると思います。ちなみに家野(よの)が正しい音だと仮定した場合は、例えば浦上川が近いこともあり元々は葦のしげる野原であったことから、よしのと呼ばれ、時代とともに短縮され「し」が抜けて「よの」となり当て字に家野と充てられた可能性もあるように思えます。
今日は三菱兵器大橋工場のあっと浦上山里村家野郷のおはなしでした。2度と核兵器が使用されず、戦争に巻き込まれない日本が続くことを心より願っています。
この記事へのコメント