裸島(浦上淵村瀬ノ脇浦 裸島) 長崎港内にあったその名も裸島

長崎港内には江戸時代、裸島という周囲60メートルほどの小島がありました。今日は字面だけ見ればヌーディスト島?と妄想したくなるような気になる名の裸島について

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写真は長崎港(船)から見た裸島方向、世界遺産になった三菱のジャイアント・レバークレーンが見えます。大雑把に言えばクレーンの右側が瀬ノ脇方向、左側は飽の浦方向になります。ちなみに裸島は明治維新の頃、長崎製鉄所設置の埋め立てで残念ながら失われています。恐らくこのクレーンの周辺より多少右側の内陸方法にあった小島と推定されます。

今もあればきっと長崎港内のいいアクセントとして名所になっていたかもしれません。

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こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。江戸期の長崎絵図には必ず描かれている裸島、伊能大図にも描かれていますがこちらのほうがより鮮明です。この絵図でも分かりますが決して植物のない禿げた裸の島ではありません。ちなみに大村湾の宮浦沖にも同名の島が現存しますがこちらも植物に覆われた島です。

この絵図でも見れば江戸期の飽の浦から瀬の脇、水ノ浦までの海岸線も分かりやすいと思います。ちなみに裸島近くに描かれたエビス社の文字がありますがこちらは現在もある釛山(こがねやま)恵美須神社のことです。

伊能忠敬の測量日記には裸島、周囲三十二間遠測するの記述があります。一方、江戸期の長崎観光ガイドともいうべき長崎名勝図絵には裸島について、黄金島(こがね)と紹介され、昔からの言い伝えとして島の根部半分は黄金であるが掘ってはならぬといった記述がみられます。言い伝え自体の真偽も本当にあったのか疑問です。近くの釛山(こがねやま)恵美須神社と話を合わせるために創作した可能性もありそうです。

そういえば、同じ浦上淵村の小瀬戸郷にある鼠島も長崎港内にある小島(現在は埋め立て)ですが皇后島と呼ばれ神功皇后伝説があるように裸島の黄金に関してもやはり何か皇后島同様に創作のにおいがします。

さて、その名称から、江戸期は出島のオランダさんや丸山の芸者が密かに裸で密会しロマンスが繰り広げられた島でもあれば文学的に見ても尚一層興味深い島であったと思いますが、あろうことかこの島、真偽は残念ながら不明ですが延宝年間に磔が行われたり、寛文七年には博多商人が磔になった言い伝えがあります。

対岸の瀬ノ脇や恵比須神社からも近いので見せしめの効果はあったのかもしれませんが、わざわざここで行う必要があるのかを考えればこちらの言い伝えも疑問に感じます。ただ、それだけ裸島の存在だけでその位置的なものや形状から長崎港をより美しく演出する効果があったことがこの島を話題性に富んだ島にしたのかもしれません。

しかも埋めた出て消えたことにより、もっと浪漫度は増したと言いたいところですが、私のような長崎の歴史や地図好きでないと裸島の存在自体しらない市民の方が多いと思われます。

さて裸島の由来ですが、島に樹木があることから禿げている意味での裸ではありません、また官能的な言い伝えすらないことからこちらの線もないでしょう。この裸島のあった海域ですが岩礁が乱立して航行の難所であったことは分かっています。そのことと関連して近くには飽ノ浦や瀬ノ脇という地名があることでも分かります。

私が考えでは元々岩礁も多いことからいつも波が高い島であったことから波高(はだか)島と呼んだ、あるいは波が高いことから台風の時などに植物が飛ばされたり、枯れ死することで裸になったこ可能性もありそうなことから住民がハダカ(裸)島と呼んだ可能性もあるように思えます。

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上記写真は2010年に撮影された浦上淵村瀬ノ脇浦 裸島(長崎市飽の浦町)附近の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。瀬ノ脇文字下付近が釛山(こがねやま)恵美須神社になります。また〇の部分が裸島のあった場所付近になります。見ての通り現在は三菱造船所内ですので勿論立ち入り禁止です。

今日は長崎港内にあった裸島のおはなしでした。


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