瀬ノ脇浦(浦上淵村 瀬ノ脇浦) 釛山恵美須神社は江戸期の埋立地 

先日紹介した裸島の対岸が瀬ノ脇浦でした。今日は釛山(こがねやま)恵美須神社のある瀬ノ脇浦についてのおはなしです。

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こちらは水ノ浦方面から見た瀬ノ脇方向です。恐らく当時は道路を含め海だった場所で岩礁があり航行の難所だったようです。今は写真が示す通り長崎造船所があり世界遺産のジャイアントカンチレバークレーンが見える地域です。バスも市街に近いこともあり頻繁に走っています。

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飽の浦神社前バス停近くより見た瀬ノ脇(水ノ浦方向)、三菱のレンガ壁が印象的なエリアでもあります。この場所、車ですとカーブがきつい場所です。バス停名はなぜか飽の浦神社前です。ちなみに写真に写っているバス停は水の浦バス停になります。

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飽の浦神社前バス停から見た釛山恵美須神社、道路背後の緑の部分にあります。ちょうどカーブのきつい部分の途中にあるのでよそ見は危険です。バスで降りてゆっくり近くを散策することをお勧めします。

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こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。エビス社とあるのが釛山(こがねやま)恵美須神社です。
水ノ浦方面にセノワキの記載が見えます。地形的にはあまり浦というほどの地形に見えませんが、エビス社の造営前は小さい入江程度の浦だったのかもしれません。

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釛山恵美須神社ですが、長崎名城図絵に市内の恵美須町にあった恵比須様を小柳五郎座衛門が申し出て瀬ノ脇の岸に小祠を設けたのが始まりのようです。その後享保元年(1716年)に周防徳山の神職、柳木内膳がこれを譲り受け、京、江戸、大阪、堺、長崎の商人の助力を得て山を崩し海岸を埋め立て造営されたようです。記述が事実なら埋立地の多い長崎とはいえ、江戸期のものは出島や新地などまま見られますが長崎の賑わいを表しているかのようです。ちなみに伊能忠敬の測量日記にも恵比須社の記載があります。

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こちらは明治34年陸測図「長崎」(今昔マップ on the webより)貴重な明治期の瀬ノ脇、地形図で。瀬ノ脇の地名が見られるのはこれが最後で以降の地形図には瀬ノ脇の地名は見られません。残念な点は長崎造船所の埋立が完了し、江戸期の海岸線の地形がすっかり失わている点でしょうか。

さて次はエビス社のあった瀬ノ脇について、浦上淵村時代は瀬ノ脇浦、その後の淵村時代には瀬ノ脇郷を名乗った時代もありましたが大正2年より昭和40年まで瀬ノ脇町となりますが、残念ながら現在は飽の浦町に合併され地名が消失しています。できればバス停だけでも飽の浦神社でなく瀬ノ脇を名乗ってくれればと個人的には思います。

伊能大図にも瀬ノ脇浦の記載はありますが残念ながら水ノ浦と平戸小屋の間に誤記載されています。ただし測量日記に出てくる瀬ノ脇浦は正しく飽ノ浦と水ノ浦間に記載されています。

瀬ノ脇浦の地名の由来ですが、沖に裸島や他にも岩礁があったようで、その航路の難所になっていた瀬の脇にある場所であったことから瀬ノ脇となったと考えられます。エビス社のない時代は小さい浦のようになっていたことから瀬ノ脇浦と呼ばれた時代もあったのではないでしょうか。

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上記写真は2010年に撮影された浦上淵村 瀬ノ脇浦(長崎市飽の浦町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。瀬ノ脇文字下付近が恵比須神社になります。

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旧瀬ノ脇町高台より見た水ノ浦方向、小さくですが水ノ浦バス停や長崎バスが見えます。江戸の初期は高台から下はほぼ海岸線だったのかもしれません。

今日は恵比須神社のある瀬ノ脇のおはなしでした。

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