
三菱重工長崎造船所の大きな工場群や世界遺産のクレーンも見えます。この辺り、立神までは三菱造船の労働者も多いためバスも多く運行されています。この撮影場所も急な坂を登らないとたどりつけないのが飽の浦らしくもあります。

世界遺産のカンチレバークレーンと長崎バス、この道路、交通量も非常に多いのでこんなすっきりした写真を撮るのは運次第かも(笑)

さて飽の浦と言えばやはり坂よりも三菱重工長崎造船所だと思いますがその歴史は幕末の1861年に建設された長崎鎔鉄所、その後すぐに長崎製鉄所に改称され、明治維新後は長崎造船所となっています。製鉄所という名ですが実際には造船がメインだったらしいです。恐らくその幕末期にこの飽の浦や近くの裸島を含め埋立られたものと思われます。

こちらは長崎造船所の敷地内にある三菱の長崎造船所資料館、普段は入れない造船所内に入れるほか展示されている資料にも見ごたえがあります。また資料館になっている写真の赤レンガの建物は「木型場」として明治31年に建てられたもので世界遺産にもなっています。私の行った頃は無料でいい資料館だと感動しましたが、現在は800円となかなかハードルが高い資料館になっています、もちろん造船やスペースジェットのことを考えれば三菱重工としても当然このぐらいは頂かないといけないでしょう。

飽の浦バス停付近を走る長崎バス、蛇足ですが長崎バスの1日乗車券で乗れる範囲のひとつがこの飽の浦までです。さて地名の飽の浦ですが伊能大図にも測量日記にも飽の浦郷として記載があります。また旧称秋の浦とする文献も見当たりますが、幕末期の焼き物に秋ノ浦焼があるようですので同じ稲佐地区になった鵬ヶ崎焼があるように焼き物としての商品ブランド価値を上げるために敢えて美称にしたのではと私は思います。
また秋の浦については、観月の名所から秋の浦となったとの説もありますが、観月なら長崎名勝図絵にある神崎、また近くには裸島が目の前の瀬ノ脇浦や岩瀬道には身投石があったことを考えると飽の浦が観月の名所とは思えません。もしそうであったならしっかり長崎名勝図絵にもそのことが記載されていたことでしょう。ちなみに長崎名勝図絵では飽の浦、旧名秋の浦との記載があるのみです。
秋の浦、安芸の浦でもいいですが、あくに代わるとは思えません、逆はあり得そうですが。。
そういうわけで、私は昔からあくのうらであったと思います。ただ住民も多いことから悪の当て字が嫌われ飽の浦となったと考えられます。例えば茂木の宮摺には悪所岳がありまがあちらは住民もいないためそのまま悪の字が使われたのでしょう。恐らく飽の浦も辺鄙で人が生活していないような場所であれば悪の浦となっていたかもしれません。
ではなぜアクであったかですが、飽の浦の場合は浦としての機能が悪いことを考えれば岩礁などが多いことから港としての機能が他の長崎港の浦々に比べ悪かったことや、周りが崖に囲まれ生活できる平地が少ない点などが考えられます。また上ぐの意から浦からすぐ上がる崖になっている点から飽の浦となった可能性も少ないながらもあるかもしれません。
ちなみに北海道に多いウェンの地名も悪の意味で使われており、ウェンナイ(悪い沢)、ウェンベツ(悪い川)、ウェントマリ(悪い泊地)、ウェンシリ(悪い山)などウェン系の地名が多く残されています。アイヌ語地名の悪いの意味は例えば、食べ物が少ないとか渡りずらい、上りずらいなどの意味で使われる場合が多いです。
長崎の飽の浦も他の港内の浦に比べ、地形的なものや、水がない、魚が少ない、航行が難しいなど不便な点からあくとなったのではないでしょうか。近くに裸島や瀬ノ脇浦があるように飽の浦も岩礁の多い浦だった可能性は充分あります。
そんなあく的な浦だったからこそ製鉄所の候補地(埋立)にもしやすかった可能性もありそうです。

こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用、裸島の奥の方の浦が飽の浦です。

こちらは明治34年陸測図「長崎」(今昔マップ on the webより)貴重な明治期の飽の浦、残念ながら浦自体は造船所のためすっかり埋立られいます。江戸期の地形図ができれば見たいものです。

上記写真は2010年に撮影された浦上淵村飽ノ浦郷(長崎市飽の浦町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。飽の浦周辺に大きな造船所の建物群があります。
今日は長崎造船所ゆかりの飽の浦のおはなしでした。
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