戦国の歴史ファンは多いと思いますが、流石に崎戸浦合戦まで知っている方はローカル度が高いので少ないでしょう。まして平戸側の歴史には載らないような性質の歴史かもしれません。ちなみにこの崎戸浦合戦については大村郷村記に松浦側が兵船2艘で60余名で攻め込み、崎戸の18歳小佐々弾正が敵方を撃退し崎戸を守ったことが記されています。
平戸と言えば倭寇でも名をはせと松浦党、その松浦の水軍をわずかな軍勢かもしれませんが一人残らず撃退したとなれば小さな島にとっては郷土の輝かしい歴史でしょう。
蛎浦島から見た堀子方向の海岸線、左側の集落のあるほうは村、それから海岸線の方向が堀子になります。(防波堤で見えずらくなっています)
堀子より見た平戸方面、この海域で崎戸浦合戦が行われたものと推定されます。見ての通り、平戸島はよく見える場所ですので夜襲でも行わない限り平戸勢は常に監視できる場所です。
上記写真は1975年に撮影された崎戸村本郷 堀子(西海市崎戸町)附近の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。写真にある本郷城が小佐々氏の居城になります。堀子は平戸側に向いた海岸線になります。
さて堀子の地名について考えたいと思います。堀子だけだと一般的には鉱山の人夫を一般的に差します、確かにお隣の蛎浦島は炭鉱の島でもありますが鉱山関係の堀子としての地名ではなく、堀籠(ほりごめ)が時代とともに略されてほりことなり当て字として堀子になった気がいたします。ちなみに堀籠ですと中世の豪族屋敷の丘陵などの麓にある集落を指します。位置は当時とは多少ずれるかもしれませんが小佐々氏配下の住民の集落の名残地名として堀子が存在しているように思えます。ちなみに堀子は伊能大図にも測量日記にもない小字地名です。
また小字の堀子付近は後ろが丘陵の海岸線ですが、平戸側からは空中写真でも分かると思いますが舟戦が終わり、陸上戦が行われ本郷城を攻め込む場合には上陸地としては最適です。ちなみに本郷城の裏側は急斜面で攻め込みずらく、裏に回るには崎戸側に常に監視されるので大軍を率いない限り非常に不利ですし、例えば村付近が通常であれば一番上陸には適していますが、この場所ですと蛎浦島側からも攻撃を受けやすく四方から攻撃され攻撃側は非常に不利な地形と言えます。崎戸側には逆に非常に防衛しやすいとも言えます。
そういう意味で堀子付近には平戸側から見れば一番上陸しやすい場所であり、崎戸側からみれば一番最初に島側の前線基地としての防衛機能をもたせるべき場所に思えます。戦国の松浦と大村藩の緊張が走った時期には小佐々氏がここに敵(松浦勢)を迎え撃つための遠見番所的なものや小さな砦(小屋程度)のものをこの堀子付近に設けていてもおかしくないでしょう。今でこそ家がない地域ですが、昔は緩斜面の場所には小さな集落があったのかもしれません、そんな中世の崎戸を思い浮かばせてくれる地名が堀子だと思います。
今日は崎戸にある堀子のおはなしでした。
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