写真は鵬ヶ崎(ぼうがさき)付近を走る長崎バス、登り道が岬跡になります。隣の九州号の支社からは稗田になります。
今では削られて道路になりましたが、なんとなくこの傾斜が江戸期までは長崎港に突き出た岬だったことはなんとなくイメージできます。
鵬ヶ崎を裏側(淵方面)より見るとこんな感じで、ビルがあり分かりづらくもありますが何となく細長い岬だったことを伺わせてくれます。
こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より鵬ヶ崎付近を引用しております。江戸期の鵬ヶ崎の雰囲気を伝えています。また対岸の米蔵は現在の駅前(NHK)附近にあったと考えられる北瀬崎米蔵です。伊能大図や測量日記にも字は違いますが坊ヶ崎と記載がる地名です。また鵬ヶ崎焼という焼物が蒲池子明氏によってこの地で1823年から1852年まで焼いていたらしいです。ちなみに鵬ヶ崎焼以前の地名は坊ヶ崎であったことを考えると、この鵬ヶ崎の鵬(おおとり)の当て字は坊よりご立派な?字に別の当て字をすることで焼物としてのブランドを確立する戦略から鵬ヶ崎となり地名も引きずられる形でこの鵬ヶ崎となった可能性が高いと考えられます。
さて鵬ヶ崎の地名の由来ですが坊の当て字がされているので可能性として寺院関連の何かがあった可能性もありそうです。特に戦国の頃はキリシタンの仏教徒との抗争があった地でもあります。また単に見た目が棒状にみえることからボウガサキと呼ばれ当て字に坊が当てられた可能性も充分ありそうです。また岬の崩壊地形から崩部分からボウガサキとなった可能性もありそうです。
上記写真は2010年に撮影された浦上淵村稲佐郷鵬ヶ崎(長崎市稲佐町)附近の空中写真です。鵬ヶ崎文字の右側が突き出た岬になっています。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。稲佐橋バス停からすぐの鵬ヶ崎は稲佐への登り口、岬の形状をなんとなく残しながら縁の下の力持ちとして現在も日々多くの市民に利用されています。石橋になんとなく似てますね。
今日は稲佐にあった鵬ヶ崎のおはなしでした。
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