
写真の昔なら残る階段の向こう側に志賀波止があったようです。昔はこの周辺に稲佐の浜があった場所になります。地名にある志賀ですが、こちらは江戸期より浦上淵村の庄屋を代々受け継ぐ志賀家に由来します。志賀家は戦国期の北部九州を支配した大友家の家臣といわれています。明治維新後も海運業をこの波止場で行っていたようです。
地名の由来は、ずばり、志賀家の屋敷前の波止場から志賀波止と呼ばれていたようです。伊能大図や測量日記に出てくる地名ではありませんが測量日記では庄屋志賀和一郎宅で小休止したことが記されています。
また長崎名勝図絵の割石の絵にある屋敷が志賀家の屋敷にあたります。
この志賀波止近くに近年までシーボルト事件の発端となったと考えられたコルネリウス・ハウトマン号が座礁したことが歴史の記録として残されています。通説では座礁船から国禁のものが発見され事件が発覚したことになっていましたが、近年の研究で積荷は銅しか積まれていなかったことが文書からも明らかになり現在はシーボルト事件と絡んだ噂がこうした座礁船からの禁制品発見説となったようです。現在は江戸で発覚したことが有力視されているようです。
それにしても座礁したハウトマン号は対岸から流されて座礁したようで風向きからも、シーボルト台風と名付けられた台風の威力を感じますし、風向きから考えて北側を通ったことは分かりますが、近年では西彼杵半島に上陸したことが有力のようです。ちなみに台風の接近時にシーボルトが気圧測定をしており28.1インチ(約952ヘクトパスカル)が記録されています。ちなみに天領長崎の被害だけでも出島の洋館は倒壊、家屋の全壊2780軒、死者45名が記録されています。またお隣の大村藩では家屋3000軒以上、死者3107人の大被害が出ています。また佐賀藩では高潮や大火で死者8550人、福岡藩も博多湾の高潮被害などで2353人の死者が出る大被害が記録されています。
こうみるとシーボルト台風は歴史上にも残る気象災害だったことが分かります。長崎で言えばどうしても江戸期の島原大変、近年では私も経験した長崎大水害を思い出しますがシーボルト台風も長崎の歴史上に記憶すべき自然災害でもあったと言えます。志賀波止もハウトマン号の座礁の他にも当然被害があったことでしょう。こんな歴史上に残る災害なので島原大変のように本でも出てくれることを期待したいです。

上記写真は2010年に撮影された浦上淵村稲佐郷志賀波止(長崎市旭町)附近の空中写真です。割石のすぐ横に志賀波止があったと推定されます。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。
今日は稲佐の志賀波止のおはなしでした。それにしても稲佐界隈は地名だけでなく歴史的にも非常に興味深い地域です。
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