中通(西浦上村西北郷 中通)仮称赤迫駅だった国鉄西浦上駅

国鉄の民営化直前に誕生した西浦上駅、今日は西浦上駅のある歴史ある地名、中通について。。

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写真は西浦上駅に停車中の国鉄急行色のキハ66・67(今年引退)、国鉄末期といえば、ローカル線廃止が加速する暗い話題もありましたがJR移行のために大胆なダイヤ改正や新型車両の投入、そして西浦上駅みたいに駅の設置と明るい話題が多かったことを思い出します。

特に地元民で鉄道好きだった私は勝手に興奮したものです。駅名は赤迫ではなく西浦上、小中学校と西浦上だった私からすれば納得の駅名ですが、開業前は以外にも赤迫案であったらしいです。赤迫に住んだこともある私が言うのもなんですが、赤迫は路面電車の終点のイメージがあるので余所者のお役人が思いついたのかもしれません。個人的には住吉駅も充分ありなのですが、住吉だと全国的に駅があるので肥前住吉にする必要があったので、いろんな経緯があったのかもしれませんが西浦上駅になったのでしょう。

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西浦上駅に長与方面より進入するキハ66・67、手前には20パーミルの勾配標が写っています。この勾配、実は長崎旧線の輸送のネックになっていた松ノ頭峠越えの最大勾配と同じ勾配で、以前はスイッチバック駅だった本川内駅も20パーミルでした。(現在はスイッチバック廃止による変更で25パーミル)、もし国鉄の昔の基準のままだと西浦上駅も設置するならスイッチバックにする必要があったということになります。そんな理由から基準が緩和されるまで駅が設置されなかったのかもしれませんが。。

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こちらは西浦上駅停車中のシーサイドライナー色キハ66・67、はじめは無人駅だった西浦上駅ですが利用者の増加もあり有人駅時代もありました。コロナ渦さえなければ利用客が増加する優良駅だったと言えます。

さて西浦上駅の話に脱線しましたが、この西浦上駅のある場所の小字地名が今回紹介する中通(なかどおり)です。私は現在東北の福島県中通りに住んでいます。福島県は山通り(会津地方)、中通り、浜通りの3つの地域に分かれており地域により気候と文化も全く違います。偶然ですが、西浦上の東北郷で育ち、現在は東北の中通りに住んでいるので地名の縁を感じています。

さて小字の中通は、西浦上駅付近や中園商店街、音無町の一部になります。中通ですが伊能忠敬の測量日記には記載があり興味深い記述があります。大村藩領浦上北村、人家散在し字なし、只、西または東という、そのあと、字東、字西、字中通の記述がみられます。少なくとも江戸期は現在の住吉周辺を指す広い地域の地名であったことが想像できます。

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こちらは明治34年陸測図「長崎」(今昔マップ on the webより)、明治の陸測図を見ると西北の下に中通の記載があります。少なくとも明治までは地形図に載るほど地域を表す地名だったことが伺い知れます。

中通の地名の由来ですが恐らく、大村藩領浦上北村の東(後の東北郷)と西(西北郷)という大きな地区があり、その中間にある浦上街道附近周辺を東と西の中間にある街道のある地区として中通と呼んだのが地名の由来になったと考えられます。同じ中通といえば市内中心部には中通り商店街があり、あちらが賑わうと混同を避ける意味もありこちらの中通の地名が廃れていったのではないでしょうか。

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中通にあるジョイフルサン住吉店、昔はアサヒショッパーズと呼ばれ賑わいました。屋上にはゲームコーナーや子ども図書館が設置された時代もあり私も当時は随分お世話になりました。現在は建物が変わりましたが小さいながらもジョイフルサン住吉店として復活をとげています。

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中通にある中園商店街、浜の町の一角に中通りがなければこちらが中通商店街と名乗っていたかもしれません。もしかしたら電停も中通だったら住吉よりメジャーな地名として定着した可能性もあったように思えます。

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実は現在も住吉地区に偶然にも中通が残っている場所があります。写真の住吉商店街の市場内にある中通市場です。偶然かもしれませんが地名の片鱗が残されているようでうれしくなります。知人がこの市場内にもいますが、きっと中通市場の由来を聞いても「そがんこと知らん」と答えられそうです(笑)

今日は西浦上の中通のおはなしでした。

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