中園(西浦上村西北郷 中園)岩屋川沿いの桜並木はキハ66・67の撮影地

今日は鉄分多めで(笑)、先に紹介した西浦上村西北郷中通のお隣、中園について。。

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以前は近所でしたので桜の季節にキハ66。67の写真を撮るのも楽しみな時代がありました。身近ながら桜並木があるお陰で街中とは思えないようないい撮影地だったのですが現在は、キハ66・67やキハ200、220の廃車や転属で華やかさを失った気がします。この好条件で国鉄急行色を撮れなかったことが心名残です。

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こちらは当初、トップ写真に使う予定だったシーサイドライナー色のキハ66・67、後で上の写真が見つかり変更しました。消去するのももったいないし、再度加工し直すのも面倒なのでそのまま掲載します(汗)

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こちらも長崎から撤退したキハ200

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中園踏切近くは岩屋川沿いの桜並木が見事です。昔はなかったような。。。

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中園の桜並木を走る国鉄急行色のキハ66・67、本当は青空、順光の条件で撮りたかったです。

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こちらは桜の花びらがない夏の中園を走るキハ66・67

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桜並木の一部が伐採されましたが怪我の功名か、赤迫側からも桜並木を走るキハ66・67を撮れました。ちょっと鉄分が多すぎたかもしれませんが、中園の話に戻りたいと思います。

長崎旧線沿いにある岩屋川ですが、戦後の区画整理で直線化され線路沿いに流れていますが戦前の地形図を見ると赤迫から中園(住吉)方面では蛇行して国道沿いを走り、中園一帯は稲作地帯だったことが分かります。現在は住吉と並ぶ商店街を形成している中園地区ですが昔は長閑な田園が広がっていたことを想像するのは難しいです。

さて小字地名の中園ですが、伊能忠敬の測量日記や長崎名勝図絵にも記載がない地名です。早速ですが中園の地名の由来を考えたいと思います。まず中ですが、前回の西北郷中通で説明したように浦上北村が江戸期に東と西と大きく分かれ浦上街道の通る中間部を恐らく中通と呼んだように中園の中は恐らく中通の中が由来になったと考えられます。園は一般的に野菜や果樹などを栽培する畑の意で用いられることが多い用語です。

明治期には陸測図から稲作地帯だった中園ですが、江戸期は畑作地帯だった可能性はありますが、近くに岩屋川が流れる条件の良さを考えれば江戸期から田園地帯だった可能性も充分ありそうです。そう考えると中通地区にある畑作地帯から又は中通地区にある田園地帯の一部が畑作地帯だったことから、中通地区にある園という意味で中園という地名になった可能性が高いような気がします。

今年は中園地区で余所者が原因ではありましがが残念なトンデモがありました。こういうことがない平和な中園が続くことを祈っています。

今日は岩屋川沿いの桜並木が美しい中園のおはなしでした。

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