下大橋を渡る長崎バス、バスの後ろ側が地名の桟敷田(さじきでん)になります。電鉄バスの名残で近くに長崎バスの大橋営業所があるため、この下大橋を起点に多くのバスが運行されています。桟敷田バス停でないことが個人的には残念ですが(笑)
写真は、下大橋バス停、ここからダイヤランド行きが多本数運行されています、ここも元桟敷田付近ですが現在は長崎市の三芳、油木、城栄町境付近でヤマダ電機やリンガーハットがある付近が桟敷田です。
桟敷田付近を走る長崎バス、この浦上川沿いは長崎バス2番系統虹ヶ丘線が運行されています、特に名所はないですが、下大橋は長崎バスの1日乗車券の圏内ですのでヤマダ電機で買い物したり、リンガーでちゃんぽん食べたり、ちょっと足を延ばせば長崎市の科学館があります。(こちらも1日乗車券範囲内)、そう考えると以前は田んぼ、昭和初期は三菱の軍需工場の朝鮮人徴用工の宿舎があった場所ですが現在の方が行く価値がある場所に発展しています。下大橋を渡れば大橋球場もありますしね。。
小字地名の桟敷田ですが伊能忠敬の測量日記や長崎名勝図絵にも記載がない地名です。桟敷田の地名の由来を考えたいと思います。戦時中は主に朝鮮人徴用工の宿舎があった場所ですが明治の陸測図を見ると周辺が稲作地にになっているので桟敷田の田の部分は間違いなく田んぼが由来になっています、浦上川は川岸が高く水を引くのは大変ですが桟敷田付近には以前岩屋川が流れていたのでこちらから水を引いていたと考えられます。現在の岩屋橋付近で岩屋川と浦上川が合流するように改修されたのは明治後期のようです。
桟敷部分ですが桟敷と言えば長崎くんちでもお馴染みですが一段高い見物席の意味です。桟敷田のある場所は浦上川沿いの河岸段丘の場所にあります、段丘面は江戸期や明治期は恐らく稲作地ですのでこの段丘面を桟敷に例え、桟敷田となったように考えられます。この辺りですが爆心地に近く被害も相当大きく生存者も非常に少なかったはずですので、有力な地名を愛する桟敷田住民がいれば地名が残りバス停名も桟敷田になった可能性も充分あったと思いますが稲作を示す地名が残らなかったのは残念です。
まぁ~長崎市内の場合、地名同様、稲作地も郊外を除けば中心部からは消失しています。
上記写真は2010年に撮影された浦上山里村 桟敷田(長崎市三芳、油木、城栄町境附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。桟敷田のすぐ近くには以前紹介した八幡城があります。八幡城の防衛を考えると東側は川や田園に守られた要害になっているので防御力をその他の方角に集中できる利点がありそうです。
今日は幻の八幡城下にあった桟敷田のおはなしでした。
この記事へのコメント