疱瘡小屋(浦上山里村里郷 疱瘡小屋)天然痘の歴史を伝える地名

北海道や樺太のアイヌ語地名を追いかけていた私も、年齢的なものか、あるいはようやく成長したのか(笑)長崎周辺の地名にも目を向けるようになったきました。その中でも目に留まった地名のひとつが今日紹介する、疱瘡小屋です。

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写真は疱瘡小屋のあった本尾公園周辺の遠景、中央のマンションの上にある標高100メートルほどの小山です。ちょうど浦上天主堂の裏手にある小山になります。

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明るい時間に撮った本尾公園周辺の遠景、現代はエコノミックアニマルの世ですので場所は明示しません。詳しくは「復元 被爆直前の長崎」を見れば小字地名の疱瘡小屋の場所が分かります。

場所というよりこの歴史を伝える地名にとても惹かれました。もちろん現在疱瘡(天然痘)は無くなりましたが、コロナ渦でもありますので伝染病にとって隔離施設は非常に人類にとって重要なものと思えます。

にも拘わらず、コロナ渦の日本は伝染病で一番重要な隔離原則すらあいまいで、家族がいるにも関わらず自宅療養を認め、臨時隔離施設や療養施設の拡充もはからず検査や検疫を含め、非常にお粗末な対応で益々この国が利権中心のため後進国へ邁進中であることを認識させられ、政治や官僚の世界が戦時中とあまり変わらない体質であることに非常に寒気を感じています。

小字地名の疱瘡小屋ですので伊能大図や測量日記、長崎名勝図絵にも記載がない地名です。

恐らくは江戸期からの地名と思われますが、天然痘の隔離施設に関する地名が長崎市に小字地名としてあったことは誇らしいことです。人口も当時の日本の中では多く、海外の窓口であった長崎ですから伝染病には他の地域よりもより敏感であったことでしょう。鳴滝塾もあったように西洋医術を学べる場でもありましたので医学においても先進性のあった地域だった長崎にふさわしい地名にも思えます。

地名がそのまま歴史を教えているような疱瘡小屋ですが、疱瘡(天然痘)になった患者を隔離するための施設です。浦上山里村は幕府領です。恐らくは現在と違って段々畑は近くにあっても人里から離れた場所だったのでこの小山周辺に天然痘の隔離施設として疱瘡小屋があったのだと思います。そんな場所の近くにBSLに揺れる医大があるのは何とも言えませんが。。。

俳句には興味がない私がふれるのは気が引けますが生涯に2万句あまりを詠んだ小林一茶には「灯ちらちら疱瘡小家の雪吹かな」という句があるそうです。ちなみにこの句は長崎を訪れた際に街道筋から疱瘡小屋を見て詠んだ句のようですので、浦上街道からこの本尾公園近くの疱瘡小屋を見て詠んだ句の可能性も充分あるような気がします。

今日は歴史を伝える地名として非常に興味深い疱瘡小屋のおはなしでした。

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