館(面高村太田和郷 館) 太田和氏館跡

かっての長崎バス最長路線だった西彼大島への玄関口太田和、今日はその地にある地名から。

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写真は太田和郷館付近を走る長崎バス瀬川木場線のバス(現在はさいかい交通)、画像の右側が太田和川の河口部です。長崎新地からですと当時の横瀬経由の太田和行きは長崎バスで2時間半以上かかっています。電車に乗れば博多に着いてしまうほど遠い場所です。現在は乗り換えや本数の削減で車でないと行くのにも時間がかかる地域です。

さて太田和郷内の小字地名「館」(たち)は伊能大図や測量日記にも字が現在と違いますが大多和村の記載しかありません。しかし大村郷村記にはこの太田和の館に関する記述が見られ、四方に土居があることや今は百姓屋敷として使われているといった内容が記されています。

地名の館の由来ですがこの周辺の土豪大多和(太田和)氏の館があったことに因んだ地名です。現在も遺構があり入口には説明板も設置されているようです。(個人宅のため敷地内へは入れません)

ここで地名の話は終わりですが大多和氏には興味深い歴史があります。朝鮮側からは現在も壬辰の倭乱として悪評の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に出陣しなかったために改易された記録があるからです。

どうして大多和氏が朝鮮出兵を拒んだのかその理由が気になります。もちろん軍功があっても恩賞があまり期待できない点や対馬の宗氏のように朝鮮との関係が多少あったのかなどと考えたり、もしかすると大多和氏の家系が秦氏のように渡来系のため出陣を拒んだのではと考えたりもしましたが、どうも実際の理由は戦費を自己負担しなければならないといった現実的な理由だったようです。流石に改易になることが分かっていれば渋々出陣したかもしれませんが、大多和氏にとってはとんだ災難の結果で終わってしまいました。

大多和氏自体、小さい土豪ですし、米が沢山採れるような土地ではありませんので懐具合がきつかったのでしょう。
ちなみに太田和の伝承として四国讃岐の塩飽島から平家残党の移住した地と伝えられているようです。

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上記写真は1975年に撮影された面高村太田和郷 館(西海市西海町太田和郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。館文字下が大多和(太田和)氏の館跡です。丁度空中写真ですと周りが緑で覆われているので分かり安いかと思います。ちなみに下り山城文字左側の小山が大多和氏の城跡「下り山城跡」になります。

今日は太田和の館のおはなしでした。

本当は館跡付近を含めゆっくりさんぽしたいところですが、オミクロン絶賛拡大中のため当分行ける状況にすらないのが悲しいところです。しばらく、いやたぶん当分は昔のように行ける状態になるのが難しそうです。移動手段のバスですらもっと削減されそうですしね。寒い時代です。

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