
平戸小屋郷烏岩方面より見た大鳥崎方面、右端の岡が平地に傾斜した岬上の地形が大鳥崎と推定されます。麓の大工場が昨今不正問題で話題の三菱電機工場がある一角です。一流企業ばかりでなく政府自体が統計の改ざんなど不正行為などを普通に行う体質ですので企業だけの責任だけで済むとは思いませんが、少なくとも日本では通用しても世界からは信頼を失い日本の国力が益々、先進国と呼ばれた時代から過ぎ去ったことを自覚すべき時期に来ていることは間違いないように思えます。

写真は海岸部から見た大鳥崎と稲佐方向、大鳥といえば、私は鉄分が割合多い人間ですので函館~網走を結んだ特急おおとりを思い出します。乗ったことはありませんが(遠軽駅で見て写真は撮ったことがあります。)中学時代に友人が特急おおとりに乗って確か北見まで行ったことを自慢していたからです。特急で10時間以上もかかるなんて、北海道は随分大きいなぁ~と当時は思ったものです。かもめなんて2時間で博多ですからね。

写真は新しい県庁から見た大鳥崎方向、本題の大鳥崎ですが、現在の大鳥町の由来になった小字地名ですが、江戸期の絵図や伊能大図、測量日記、長崎名勝図絵にも記載がない地名です。地名が名付けられたのは文献的に見て明治維新以降かもしれません。大鳥町といえば、稲佐のお栄さん(道永エイ)を思い出します。明治33年にはこの大鳥町の一角にロシア人向けのホテルを建て経営しています。伊能忠敬の測量日記や長崎名勝図絵に記載がない点を考えると江戸期はさほど注目を浴びるようなものはなかったことが推定されますので、このお栄さんがホテルを開業し賑わってる時期に地名が誕生した可能性が高いように思えます。
大鳥崎の地名の由来について考えたいと思います、まず大鳥ですが同じ平戸小屋郷にある烏岩が由来になったものと思います。大鳥崎に面した浦の地形が大鳥が羽を広げたような形からといった説もあるようですが、個人的には烏岩の烏(八咫烏)が大鳥ですので、大鳥である烏岩のある岬として大鳥崎の地名が生まれた可能性が高いように思えます。烏崎でも良かったとは思いますが。
また大鳥崎に関してはお隣の稲佐郷に鵬ヶ崎(ぼうがさき)という地名がありますので、ひょっとすると大鳥崎地名誕生のヒントにはなったかもしれません。読みは鵬(おおとり)ですからすぐ近くに似た鵬崎が存在することになるので、こちらは大鳥の当て字にして区別した可能性はあるかもしれません。

こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。この絵図の海岸線右側、烏岩下方にある浦が大鳥崎になります。恐らくは水ノ浦方向に見える岬が大鳥崎と呼ばれたのかもしれません。残念ながら明治の陸測図では明治37年埋立後の地形図で当時の海岸線が失われた後の地図しか残っていないのが残念です。一応明治34年の陸測図ですので明治34年にはこの地は少なくとも大方埋立てが終わっていたことが分かります。ちなみに地図上には海軍需品倉庫の記載が見られます。

上記写真は2010年に撮影された浦上淵村平戸小屋郷 大鳥崎(長崎市大鳥町)附近の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。ちなみに大鳥崎の文字は小字地名の大鳥崎付近です。岬自体は恐らくもっと水ノ浦寄りで現在の重工記念病院の裏側当たりと推定されます
今日は平戸小屋郷の大鳥崎のおはなしでした。
付記 大鳥崎ですが、いろいろ調べていたところ江戸期に書かれたと推定される長崎大絵図には大鳥崎が位置的なものが多少ずれていますが地名の記載がありました。長崎大絵図がいつの頃を反映した地図か分かりませんが幕末より以前より地名として存在していた可能性も充分ありそうです。また長崎古今集覧には鳥沙磯(トリサキ)、大鳥沙磯は竹洞前と記されていることがを後日確認いたしました。地名の由来はやはり烏岩に因んだ岬名と思われます。
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