深浦(香焼村 深浦) 埋立で消えた香焼口の浦

市内から長崎バスに乗ると香焼島の入口に深浦バス停がありますが、浦感ゼロ、海どころか目の前は圧迫感ある大工場が続く風景が広がります。今日はそんな浦感ゼロの深浦について。。。

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写真は浦感ゼロの長崎バス深浦バス停、市内からも1時間に2本ほど運行されています。ちなみにバスは香焼島に入るとまずは、北側の元?三菱造船(大島造船)のある長浜に向かった後に、深浦をまた通って、南にある本村、恵里方面へ向かいます。

ちょっと話が脱線しますが深浦といえば、旅好きな私は青森県の五能線沿線にある深浦がすぐに頭に浮かびます。ちょうど五能線の中間ぐらいにある港町で、最近は日本中何か所も認定され有難味がほぼ失われた世界(自然)遺産の白神山地が近くにあります。

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写真は五能線深浦駅とJR東日本のリゾート列車、五能線は日本のローカル線の車窓の良さで五本指に入る路線として有名でJRも力を入れてリゾート列車を運行してテコ入れしている路線です。私も全線には3度乗ってますが日本海の車窓は素晴らしいものです。

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写真は、「リゾートしらかみ」の前面から撮った車窓、美しい日本海の海岸線が楽しめます。

さて話は香焼の深浦に戻します。伊能大図には記載がありませんが測量日記には深浦の地名が記されていますので江戸期には存在した地名であることに違いありません。また長崎名勝図絵には記載が見られない地名です。

現在は埋立で当時の面影すら感じるのは難しい深浦ですが地名の由来を考えたいと思います。浦は、もちろんそのまま浦で当時は船が入る入江があったことでしょう。深ですが、水深が深い意味もありますが、ここの深浦は入江の奥行きが深いことから深浦となった可能性も充分あります。水深がもし深ければ埋立てるのも難儀で別の場所になった可能性もあるかもしれません。個人的には深田(ふかだ又はふけだ)が略され、本来は深田浦の意味で使われていた地名が深浦となった可能性が一番高いように思えます、実は深浦のお隣は田ノ浦地区で明治の陸測図などを見るとちゃんと田んぼ標記があります。そう考えると田ノ浦同様にこちらも浦の前にはかって田んぼが広がり、泥濘がひどい深田が広がったことから深浦の地名になった可能性が高いように思えます。

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こちらは昭和21年発行の陸測図より香焼島周辺の地形図、画像中央より左寄りにある松島(現在埋立で消失)左斜め上に切り込んだ浦が地名の標記はありませんが深浦になります。ちなみに深浦の近くには田んぼマークが一つだけ見られます。

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こちらは1954年発行の地形図より香焼島周辺の地形図「今昔マップ on the web」より、地形図に深浦の標記が入る代わりに海岸部がすでに埋立で浦が消失しています。奥の方にかろうじて田んぼマークが残っていますが深堀と香焼島が埋立で繋がる前にすでに深浦は埋立で消失していたことが分かります。

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上記写真は1975年に撮影された香焼村 深浦(長崎市香焼町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。現在もほぼ同じと思われますが深堀地区と埋立で地続きになり造船の工場地帯になっているため、この深浦地区が大きく変容したことが分かります。

今日は香焼口にある深浦のおはなしでした。

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