長崎バス時代の幸物バス停、味のある終点でしたが、現在はガラス張りの立派な待合室があるバス停に変わっています。運行本数ですが現在は1日1往復(時刻表にはないスクール便が他に1往復あるらしいです)、幸物を朝出て、夕方に戻るダイヤですので住民以外が利用するには非常にハードルが高い路線です。
ちなみに幸物郷内には過去、観光牧場なるものもあったようですが現在は幸物河川公園があり自然豊かないい雰囲気の場所がありますが宿は周辺にもありませんので幸物へバスで行くと暗くなりかけた道をひたすら下り白藤橋バス停まで歩くというあまり現実的でないことでしか対応できません。まさに現在はバスで行くには秘境度の高い路線です。
写真は秘境路線バスの終点にぴったりの長崎バス時代の幸物、バスは大瀬戸の海岸線から山を登り雪ノ浦ダムを超え、さらに登り終点の幸物へと向かいます。同じ大瀬戸町内とはいえ、海岸線から山奥に向かい20分以上かかるし途中には現在は閉校しましたが幸物分校もあったりして、個人的にも長崎にこんな山深い場所があったのかと当時は感動した記憶があります。
幸物を知ったのは長崎バスの時刻表をはじめて手にした中学時代でした。時刻表を見て当時1日3往復しかない本数に勝手に浪漫を感じていました(笑)、3往復あった当時は折り返しのバスもあったのですが、なんせ土日は運休する路線でしたので学校を休まないと乗れないという結局難易度の凄く高い路線で大人になるまで結局乗れませんでした。
バスと同じく中学時代に鉄道の最果て浪漫にを感じていた湧別駅ですが、2往復と少なかったので、手前の中湧別駅までしか行ったことがなく、今考えるとなぜあのとき乗らなかったんだと後悔してます(汗)
話が脱線しましたが、地名の幸物ですが残念ながら伊能大図にも記載がない地名です。「群村誌」には雪浦村の東方は深山幽谷、広漠の原野多しといった内容が見られるので昔から山深い場所だったことが伺い知れます。
さて難解な幸物の地名の由来を考えたいと思います。読みで考えれば貢物、や鉱物の当て字を変えた可能性も多少はあるかもしれません。ただ鉱物に関しても特に経済的価値があるような鉱物があったような歴史も見られないので可能性は低いでしょう。幸物の幸部分ですが川(河)の変化したものだと思えます。ちなみに近くには雪浦河通郷(ごうつうごう)があります。物ですがこちらは淵の転訛のような思えます。もともとは川の淵部分を川渕(かわぶち)が時代の変遷で(こうぶち)→(こうぶつ)となり当て字に幸物が当てられたように思えます。ちなみに仏教に因んだ仏の可能性もゼロではありませんが低いでしょう。
偶然ではありませんが長崎には伊木力村野川内郷に(現:諫早市多良見)幸仏(こうぶつ)という同じ地名があります。雪浦の幸物ほど山奥ではありませんが同じように山間で近くに川が流れる場所にあります。ちょうど長崎本線の長与周りで喜々津方面へ向かう際に本川内から松ノ頭トンネルを抜けた車窓左手の果樹園の広がるあたりに幸仏があり、県営バスのバス停も存在します。
上記写真は1975年に撮影された雪浦村 幸物郷(西海市大瀬戸町雪浦幸物郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。山間地ですし、バスの終点からは家すら見えない寂しい場所です。
今日は秘境度の高い浪漫の終点(笑)、幸物のおはなしでした。
この記事へのコメント
幸物の由来を探していたので、少し役にたちました。
GOOD!
サルル