写真は岩瀬道郷内にある三菱向島岸壁(タンカーの停泊している岸壁)、ちなみに岩瀬道郷の小字地名にもバス停にも存在しないのが向島の地名です。向島を知るきっかけは、戦前の時刻表でした。時刻表内には長崎港内航路が簡易記載され、その泊地に向島がありました。向島?あまり聞いたことがない地名だけに気になりました。(一応地名としては向島岸壁が存在するので便宜上岩瀬道郷に含めております。)
向島に停泊中の赤い大型船、昔の五島航路連絡船が懐かしい、やっぱりこの色が好きでした。
鍋冠方面から見た向島方向、向島の地名ですが現在、タンカー停泊中の岸壁の他、飽の浦にある三菱造船所も向島三菱の名があるようです。タンカーの奥に見えるのが飽の浦にある三菱工場になります。
さて向島の地名ですが、地名から考えれば一見、島名のような気がしますが周辺には以前紹介した裸島は存在していました(現在は埋立で消滅)が向島という名の島は存在しません。伊能大図や測量日記、長崎名勝図絵にも記載がない地名です。それらのことを考えるとやはり、幕末頃より開発が始まった長崎造船所が地名の由来になった可能性が高いと思われます。
明治期より大波止から対岸の稲佐方面へは市営や民営を含め、港内交通船(連絡船)が旭町や水ノ浦、立神、西泊、飽の浦へ運航されています。私が持っている戦前の時刻表には飽の浦の記載がなく水ノ浦と立神の間に向島の記載があるので恐らく交通船の向島は飽の浦のことと推測できます。
こちらは1954年発行の長崎港周辺の地形図「今昔マップ on the web」より、戦後も昭和44年まで運航されたいた港内交通船の航路が載っているので貴重です。飽の浦附近の岸壁に交通船が寄港していたことが分かります。
昭和30年代初め頃まで稲佐方面への交通は路線バスではなく港内交通船が主役でした。市内(大波止や大浦など)から長崎造船所へ向かう三菱の工員さんや海軍の艤装員などはこの交通船に乗って対岸に渡る通勤がなんとなく向かいの島に渡るような感覚になったことが向島の地名の由来になった可能性が高いように思えます。他説があるかもしれませんが、現時点ではこれ以上のことは分かりません。
今日は恐らく長崎造船所ゆかりの向島のおはなしでした。
タイムマシーンがあれば交通船が賑やかな時代の長崎港を歩き回ってみたいものです。
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