屋敷岩原(上長崎村岩原郷 屋敷岩原)長崎県防空本部跡

ロシアによるウクライナ侵攻を見て改めて気づかされた点が民家にも備えられた防空壕(シェルター)の存在です。独ソ戦や冷戦下の核戦争の危機を経験しているだけに納得ですが、原爆を経験した長崎は?と考えると唯一私の頭に浮かぶのが、長崎県防空本部があった立山防空壕です。

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写真は、屋敷岩原内にある長崎県防空本部跡、バスですと現在は長崎県歴史博物館前に駅と風頭を結ぶ路線が立ち寄るようですが本数がかぎられているので桜町公園バス停から5分ほど歩いたほうがよいかもしれません。市内中心部であり、江戸期には立山奉行所、明治期には長崎県会議事堂、大正期からは長らく県立図書館、昭和には長崎県防空本部、県立美術館、長崎ユースホステルと最後のユースを除けば重要建築物があるエリアにありながら道が狭いことやちょっと中に入り込み主要道路から離れているため、多少歩く必要があります。

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写真は長崎県防空本部のあった立山防空壕、2005年より一般公開されています。一部除外日を除き9時半より17時までですが一見の価値ありです。ちなみに防空本部は太平洋戦争中の空襲警報発令の際に知事や警察、軍部の要員が集まり連絡や指揮を行う場所で原爆被害などもここから国へ伝えられたようです。

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こちらの写真も立山防空壕、暗さとともに堅牢さが分かります、なんとなく立山防空壕を大型化したような沖縄の海軍司令部壕を思い出します。実際にEU圏やロシア圏などにどれぐらいのシェルター(地下鉄など転用できるものもいれ)が存在するのか分かりませんが、長崎ではここ以外せいぜいトンネルぐらいでしょうか。。

以前、どこぞの国のミサイルが通過した際、不気味なJアラートが市内で鳴り響きましたが、正直言って、鳴った処で特に行くべき場所すらない現実、地下鉄や地下街もない田舎ではせいぜいトンネルぐらいが一番安全かもしれませんが、そんなトンネルに行くまでの時間にミサイルなどとっくに到達できるわけで、実際本気で攻撃を受ければ、家で当たらないことを祈るぐらいしかできないことを痛感したことを思い出します。

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写真は以前の地味な印象から垢抜けして生まれ変わった長崎奉行所立山役所を模した長崎歴史文化博物館、こちらも小字地名の屋敷岩原内にあります。書籍やネットを含め長崎奉行所立山役所は紹介されているので詳述しませんが1673年に完成し、元県庁跡の長崎奉行所西役所とともに江戸幕府の長崎を治める中枢機関としての役割を果たしています。

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写真は屋敷岩原内にある長崎歴史文化博物館前に入場中の上町コッコデショ、マスクなしで安心してコッコデショを追いかけて楽しめる時代に戻ってほしいものです。

さて小字地名の屋敷岩原について、伊能大図には建物の屋根とともに岩原の文字があり(お隣には屋根とともに立山の文字、恐らくは立山役所)、伊能忠敬の測量日記には岩原屋敷、立山御役所の記載があります。また明治の陸測図には懸会記事堂、昭和の地形図では図書館の文字が見受けられます。もともと屋敷岩原の小字地名内には江戸期に岩原目付屋敷があり、そのことが地名の由来になっています。岩原目付屋敷は長崎奉行所を監察する目付のための屋敷で1715年に設置されています。ちなみに時代劇、遠山の金さんの父(遠山金四郎景晋)はここで目付や長崎奉行として活躍しています。

岩原屋敷のあった場所には長らく長崎ユースホステルがあり、地元でしたので泊まることはありませんでしたが、ここでユースの会員になり更新のためこの地に通っていたこともありました。今ではすっからかんで時の流れを感じます。なざ岩原屋敷が小字地名になると屋敷岩原になったのかは不思議ですが特段深い意味もなく、なんとなく屋敷岩原になったのかもしれません。またなぜ岩原の名がついたかといえば、近くを流れる岩原川、または岩原郷内にあるお屋敷としてのどちらかが由来になったと考えられます。

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上記写真は2010年に撮影された上長崎村岩原郷 屋敷岩原(長崎市立山1丁目)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。屋敷岩原文字の場所が岩原目付屋敷(長崎ユース)のあった場所でその手前が立山役所(長崎県歴史文化博物館)になります。

今日は長崎の歴史の宝庫ともいうべき屋敷岩原のおはなしでした。

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