尚、当初間違って久留里の神社の写真を掲載しておりました。申し訳ございません。
下の写真は改めて釜島附近の写真を撮っておりましたので差し替えております。
写真は海側から見た釜島附近、周辺から突き出たような出岬(小山)の麓に神社があるような景観です。この熊野神社については大村郷村記に日並村鎮守三所権現として寛永12年9月建立、例祭9月12日と紹介されています。ちなみに三所権現とは熊野三社の主祭神で三所は熊野、新宮、那智のことになります
こちらは昭和21年発行の陸測図より釜島周辺の地形図、久留里岬を含め埋立前の様子が分かり安いと思います。さて釜島の地名について考えたいと思います。伊能大図や測量日記に記載はありませんが、大村郷村記には三所権現の他にも釜の島波戸、長八間、横二間半、(日並川より釜島まで)畠にて人家あり左右釜の島と云う、(合帰まで)右田畠或いは藪にて岩石あり左海なりといった記載が見られます。少なくとも江戸期の釜島には船の荷揚げできるような小さな波戸(波止)が設けられていたことが分かります。
釜島の地名の由来ですが、まず釜には崖などにある穴や植物の蒲の転訛などが地形的に考えて近いかもしれません、塩田はないので竈の可能性もないと思います。また島ですが近くの久留里岬に比べれば島というより岬地形ですが背後の山の手前にぽこんとしたような小山のある地形ですのでそれが周囲に海も近いことから遠くから見れば島のように見えたことが由来になった可能性はあると思いますので蒲の生えた島のようにみえる地形、または穴のある島のように見える地形が由来の可能性があると考えられますが正確なことは残念ながら分かりません。
上記写真は1975年に撮影された時津村日並郷 釜島(時津町日並郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。まだ昭和50年頃までは久留里岬を含め埋立が今ほどではなく海も近かったことが分かります。
上記写真は2010年に撮影された時津村日並郷 釜島(時津町日並郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。すっかり埋立が進み現在に近い状況です。大村湾は江戸期より波静かなため干拓や埋立てが盛んな地域でもあります。
今日は三所権現ゆかりの釜島のおはなしでした。
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