横道(西浦上村滑石郷 横道)長崎街道式見越えの分岐点

昔に比べ道が広くなったと感じるのが横道交差点、昔は時津へも滑石へも片側1車線でしたが現在は2車線と道路は発展を続けています。今日は横道について。。

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写真は10年ほど前の横道交差点付近(長崎バス滑石口バス停)、最近は工事も終わり4車線道路として整備されています。ちょうどこの横道交差点で時津方面へのバスと滑石方面行きのバスが分かれます(写真左側のバスが曲がっているところが横道交差点)。JRの道ノ尾駅からも歩いて10分ほどの場所にあります。

早速ですが横道の地名について考えたいと思います。伊能忠敬もこの長崎(時津)街道は通っていますが伊能大図はもちろんのこと残念ながら測量日記には記載がない地名です。大村郷村記には横道式見越追分、長崎往還横道追分や横道追分といった記述が見られます。ちなみに往還とは街道や大きな主要道路で追分とは、分岐点のことを指しますので長崎往還横道追分を現代風にいえば、長崎街道横道交差点と言った意味になります。

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蛇足になりますが追分は分岐点として鉄道でも追分の名のつく駅が全国に数駅あります。例えば奥羽線の男鹿線との分岐駅や室蘭線と石勝線の分岐駅などが現在も追分駅と名乗っています。写真は北海道の追分駅、蒸気機関車が一番最後まで走っていた駅として有名です。

昔の長崎街道ですが、現在の横道交差点よりやや滑石寄りの長崎バス滑石口バス停付近(一番上の写真)にある横道に入り平宗にあった庄屋を通り打坂峠へ向かうルートでした。その分岐点(追分)がこの滑石口付近ですので昔はこちらから時津方面へ向かう主要な長崎街道(往還)に対し、式見越えに向かう横道(枝道)があったことが横道の地名の由来と考えられます。

また現在は三重方面への道と言った滑石峠ですが江戸期は式見方面への道と認知されるほど式見との関係のほうが深かったことが分かります。

今日は時代とともに多少移動した横道のおはなしでした。



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