音無(西浦上村西郷 音無)原爆救援列車到達点の地名由来は照圓寺

音無町というと西浦上駅の岩屋山側といったイメージですが音無踏切は、長大近くのOKホームセンターの裏当たりある踏切です。なぜ場所が違うのか?そんなことが気になる音無について。。

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写真はかっての西郷音無付近を走る国鉄急行色のキハ66、以前は現在の音無踏切から照圓寺附近(現在の清水町周辺)周辺が小字地名の音無で現在の音無町とは隣接はしていますがなぜか北側に移動しています。(音無踏切付近は多少重なります)、だからこそ西浦上に長年暮らした私ですら音無踏切で事故と聞けば、大人になるまでは西浦上駅前の中園踏切と勘違いしていました。やはり音無町のイメージが強かったのかもしれません。

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こちらは、音無踏切付近を走行中の国鉄型のキハ66、踏切が過去にこの地が音無であったことを無言で主張しています。この音無踏切付近は歴史的にも長崎市民は知っておくべき場所のひとつかもしれません、昭和20年8月9日の原爆の際、当日午後の13時頃に長与駅を救援列車として運行され浦上方面を目指しましたが、この音無踏切近くにある照圓寺附近まで走ったところで線路が損傷していたのでここで停車し汽笛をならし、被災者に告知したようです。当日だけで4本が運行され大村や川棚にある海軍病院へ被災者を輸送した救難列車の歴史も長崎では決して忘れてはならない歴史に感じます。

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場所的にはなぜかひとつ先(浦上駅より)の西町踏切前に原爆救難列車の記念碑があります。たぶんいい場所が近くになかったからでしょうか。。以前紹介した椎立の写真より

原爆投下直後に運行された救難列車ですが爆心地から1・4Kほどのこの付近まで列車が走れたのも驚きです。蒸気機関車自体が相当な重量ですのでレールだけでなく道床の心配もあるので恐らく西浦上付近からは歩くほどのゆっくりしたスピードで運転されたものと推測できます。

またこの救援列車ですが実は私の所有している昭和19年時刻表を見ると肥前山口駅発長崎駅行き311列車で、もしダイヤ通り走っていたら道ノ尾駅を10時56分に出発し11時4分に浦上駅に到着し、ここで長崎発早岐経由門司港行き812列車と交換し11時6分に長崎駅へ向うダイヤでしたので所要時間や距離的なものを考えると、歴史にもしは存在しませんが恐らくこの311列車自体が音無踏切周辺で被爆していた可能性が高そうなだけに、当日たまたま列車が遅れていたため難を逃れ、列車自体が被災する可能性のあった場所付近までたまたま救難列車として運行された事実は救いを感じさせる決して偶然だけで語れない歴史の一面ではないでしょうか。

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照圓寺附近を走るJRの列車、長与周りの旧線だけが通ります。国鉄型が来てほしかったのですが来たのは残念ながら前面だけは蒸気機関車と同じ真っ黒な新型車両でした。

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こちらは、音無踏切前にある照圓寺、浄土真宗大谷派のお寺です。

さてここからは音無の地名について考えたいと思います。音無については複数の説を耳にしたことがありますが、間違いなく浄土真宗の照圓寺が地名の由来になったといって過言ではありません。音無いうと私の場合は浄土真宗の念仏が頭に浮かびます。お経を読まず仏さまを頭の中で念じ南無阿弥陀仏を心の中で祈り救いを求めることと勝手に認識しておりますがこのお念仏こそが念じることで音(経)が無いことが音無になったのではとずっと考えている時期がありました。

音無については伊能大図や測量日記、長崎名勝図絵に記載がない地名ですが大村郷村記の浦上西村の寺社之事にはなんと無音山照圓寺の記載があり、真宗であることや檀家408軒、正保年中に草創されたことや開基が清安であることが記されています。この無音山の文字を見てやはり音無は照圓寺に因んだ地名であったことを確信しました。無音、恐らくは念仏に繋がることと思いますがこの無音(念仏)こそが音無の地名の由来であったと考えられます。

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上記写真は2010年に撮影された西浦上村西郷音無(長崎市清水町附近)の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。音無の文字附近が照圓寺付近です。この辺りまで原爆救難列車が運行されています。〇部分は西町踏切付近、こちらに原爆救難列車の記念碑があります。

今日は原爆救難列車ゆかりの音無のおはなしでした。

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