かつくい原という耳慣れない地名も気になりましたが、馴染み深い浦上地区にあった溜牢にも気になりました。この溜牢は病囚や幼囚など重罪でない罪人の牢屋で罪人の矯正施設としての機能もあったようです。溜牢に関しては1748年にかつくい原に桜町牢から分かれる形で設けられたようです。江戸期にも罪人の矯正施設があったことにも感心しましたがやはり山王社(山王神社)の近くに設けられた場所がとても気になりました。
こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。トイレに貼っているので(笑)よく眺めていたのですが井樋ノ口にある聖徳寺(銭座町)の右側にある「タメ」と書かれているのが恐らく溜牢です。気づくのに結構時間をようしました。「長崎絵図帖の世界」に書かれている山王社の手前で左に曲がった山の中という記述や書物内に掲載してある溜牢の絵図2点、そしてその他のネット上で見られる江戸期の長崎絵図、現在の空中写真、そして現地に足を運んでようやく場所が現在の新坂本国際墓地の位置であることが分かりました。
付記、溜牢に関しては長崎古今集覧にも溜小屋として浦上村馬込郷之内に在ることなどが記されています。
そういわれると確かにあの場所しっかりと整地された場所です。そのうちこれをきっかけでに溜牢の案内板もできるかもしれません。意外なことに長崎学ハンドブック「長崎の史跡」にも溜牢自体記載がありません。
以前、長崎のローカルCMでも起用された新坂本国際墓地の天使様、私もたまに癒されにきます。
さて溜牢のあった「かつくい原」の地名について考えたいと思います。残念ながら江戸期のみに見られる地名で恐らくこの周辺一帯がかつくい原と呼ばれたようなふしがあります。小字地名には「かつくい原」はありませんが同じ里郷内に樫木原(かしのきばら)という小字地名がありますのでこちらがもしかしたら「かつくい原」が時代とともに転訛した地名の名残かもしれません。
「かつくい原」ですが伊能大図や測量日記には記載がありません。(測量日記には坂本の地名や山王社は記載があります。)牢屋ですので長崎名勝図絵にも当然記載はありません。地名の由来ですが恐らくは広辞苑に記載がある「蚊っ喰い」蚊に食われた痕とありますが、この蚊っ喰いが地名の由来になったと思われます。、当時は藪だらけで蚊が多い原だったことから「蚊っ喰い原」→「かつくい原」となったと思われます。今のところこの説が一番有力に思えます。
上記写真は2010年に撮影された浦上山里村里郷 かつくい原(長崎市坂本町附近)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。JR浦上駅のほぼ東側にある新坂本国際墓地、徒歩でも充分行ける溜牢のあった場所です。江戸期にあった「かつくい原」は恐らくこの坂本町周辺一帯を呼んだ地名と思われます。
今日は溜牢のあった新坂本国際墓地のある「かつくい原」のおはなしでした。
この記事へのコメント
グリーン
さるる
コメント頂きありがとうございます。
かっくい原、気になる地名ですよね(笑
お役に立ててよかったです。