
上記写真は1962年に撮影された時津村久留里郷 永ノ浦(時津町久留里郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。現在は埋立てが進み大きく景観が変わっているためこちらの画像をトップに使っております。
何と言ってもこの空中写真には貴重な左底桟橋が写っています。この左底桟橋ですが昭和37年から恐らく39年頃(遅くとも40年)まで野母商船により左底~佐世保間をわが国初の水中翼船定期航路として短期間ですが運航されています。水中翼船は4隻あり佐世保まで50分で3往復ほど22人乗りの「はやぶさ」号の愛称だったようです。その後ここを撤退後も網場~小浜間で運航されたこともあるようです。
過去の地形図を見ても見当たらない左底桟橋ですが運よく空中写真には小さな2隻の船とともに写っていたことに思わず感動しました。
この水中翼船「はやぶさ」号なんと1隻は現在も総科大にあるようで驚きです。それにしても内海から佐世保への航路は珍しく魅力的ですし、なぜ時津港でなく左底(実際は一応久留里郷で左底郷の境界と隣接した地点)だったのかも気になるところです。
私もこの航路に関しては最近まで全く知りませんでしたが、長崎バスがこの左底桟橋に航路連絡便を運行した歴史があるので知ることができました。ただ運行期間は39年の5月から6月までのほぼ1か月で終了しています。もしかしたら航路存続のための切り札の意味もあったのかもしれませんが効果なくバスが撤退しています。この時期に航路も廃航になった可能性もあるかもしれません。

こちらは長崎バスの久留里バス停、久留里郷の小字地名「永ノ浦」付近になります。現在は埋立で海は遠くなりましたが昭和30年代までは近くに波打際がありました。

上記写真は2010年に撮影された時津村久留里郷 永ノ浦(時津町久留里郷)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。ほぼ現在の状態ですが海岸部がすっかり埋立で変わっていますが何となく上の写真と比較しても片鱗が残っていることが分かります。左底桟橋横の小さな浦はきれいに形そのままに野球場になっています。
左底桟橋のあった小字地名「永ノ浦」の地名について考えたいと思います。小字地名ですので伊能大図や測量日記に記載はなく、大村郷村記にも記載がない地名です。地名が登場するのは明治期の陸測図からですので幕末以降に呼ばれた地名の可能性が高そうです。過去の地形図や小字地名の位置を見る限り(現在の地形図にも記載はあります。)久留里崎より時津側の左底桟橋当たりまでの浦(入江)を永ノ浦と呼んでいたようです。ちなみに永ノ浦公園は久留里崎の日並側と反対側位置にありますが隣接していることや地名を残すためにこの公園名になっているのかもしれません。
永ノ浦(えのうら)の由来ですが恐らくこの浦に川が流入しているため「えのうら」と呼ばれ、当て字で永ノ浦となったと考えられます。江ノ浦、江浦のほうが分かり安いですが割合別の場所でも見られる地名ですのでこの当て字にしたと思えます。
今日は短命に終わった内海航路左底桟橋のあった永ノ浦のおはなしでした。
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