女ノ戸(西浦上村川平郷 女ノ戸)元は乳母

長崎市内の女の都、正直言って一部の県外者が気になる地名であることを知ったのは大学時代でした。住んでいると何も思わない地名でも一部の余所様には気になる地名のおはなしです。

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私も女の都の写真を探しましたがこの女の都団地車庫の写真ぐらいしか見当たりませんでした(笑)、残念ながら一部の余所さまの期待するお目当てのものは一切ないだたの住宅街です。もし余所さまのご期待するような丸山や出雲、稲佐、戸町のような遊郭街でしたら私も別の写真を撮っていたことでしょう。

ちなみに長商やシー大は近くにありますが女の都ではありません(笑)

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長崎バスの女の都団地行き、今年県営バスの滑石~女の都線が廃止されたので随分本数が減った気がします。一部の男性はこの行先にロマンを感じるのでしょう。

さて小字地名の女ノ戸の地名について考えたいと思います。小字地名ですので伊能大図や測量日記、また遊郭街でもありませんし名所もないので長崎名勝図絵にも記載がない地名でが、大村郷村記の浦上家野村には乳母、浦上木場むらには「めのと」の地名が見られます。幕末までは少なくとも現在の女の都が乳母(めのと)であったことは間違いありません。

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こちらは明治34年陸測図「長崎」(今昔マップ on the webより)より女の都周辺の地形図です。この時点ではすでに女ノ都標記になっています。幕末より明治の間にいつのまにか当て字が変えられていることが分かります。ここからは推測になりますが明治期にお役人様が当て字を変え現在の女の都になった可能性が高いと思います。意外と他の地域も含め、地形図などを眺めていると、このような当て字が変えられることがたまに見られます。間違いなく男性が思いついた当て字と思われますが。。。

当て字が変えられた乳母ですが小字地名は「女ノ戸」とこちらも微妙に当て字が違っています。元は乳母(めのと)の由来を考えたいと思います。地形図で見ても昔はただの小さな山村に過ぎず、乳母にまつわる話があるような場所にも思えませんし伝承も今のところ発見されていません。当て字こそ乳母ですが読みは「めのと」ということを考えると元は夫婦(めおと)と呼ばれていた地名が時代とともに転訛して「めおと」→「めのと」になった可能性が高いように思えます。

地形図で見ると女の都川の源流部ですが2つに分かれていますのでこの2つの川の流れを夫婦に見立てて「めのと」、または川ではなく樹木などで夫婦のような2本の樹木があり、それを夫婦に見立てて「めのと」となり当て字に乳母が使われた可能性が高いように思えますが断定は当然できません。

いずれにしても今日の女の都は、当て字が印象とかけ離れた地名になっています。

今日は普通の住宅地、女の都にまつわるおはなしでした。

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