伊王島の小島方向から見た中ノ田方面、岬に見える上に中ノ田在台場、その下の浜に中ノ田台場が佐賀藩の絵図を見ると確認できます。
フェートン号事件をきっかけに1809年に佐賀藩が伊王島に築いた5台場(沖之島観音崎、伊王島真鼻、中ノ田、干場、円通庵下)のひとつです。在台場を作った後に浜にも台場を増設していますが年代は不明です。
中ノ田近くにある丘町車庫バス停、島内バスの終点でもありますが現在周囲には炭住もなくなり静かです。台場への道は残念ながらありません。
台場のあった中ノ田の地名について考えたいと思います。伊能大図には記載がありませんが伊能忠敬測量日記には中ノ田浦と記載があります。また佐賀藩の絵図では伊王島図や真鼻台場図に中ノ田台場の記載があります。
地名の由来ですが、地形的に見て川もなく田や塩田もわざわざ作られるような場所ではないので恐らく当字であることが分かります。恐らく「た」(田)は方向や位置を表す接尾語の意味で使われたのではないでしょうか。此方(こなた)のように、そう考えると中ノ田は意味としては中の方、中の位置として使われたということになります。
実はこの台場があった場所ですが伊王島北部大明寺地区にあった真鼻、中ノ田、干場のひとつで位置的には中間にあります。この位置的なものから中の位置にある台場として「なかのた」と呼ばれ当字に中ノ田が用いられた可能性が高いと考えられます。
上記写真は1975年に撮影された伊王島村 中ノ田(長崎市伊王島町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。画像左上に中ノ田在台場と浜側に増築された中ノ田台場がありました。それにしても浜側の台場は視覚も狭く射程の長い大砲でないと機能的に非常に問題と思われます。
今日は伊王島の中ノ田のおはなしでした。
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