銅ノ下(神ノ島村 銅ノ下)長崎要塞「神ノ島低砲台」

長崎港の要にある神の島、江戸期は台場、明治期には長崎要塞の砲台が築かれた島ですが長崎要塞神ノ島低砲台のあった場所が今回紹介する銅ノ下になります。

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写真は低砲台のあった銅ノ下から見た長崎バスと海、近年埋立のお陰で長崎バスが低砲台下にある海岸線(神の島3丁目)まで運行されています。市内から30分ほどですがここまで来るバスは少ないです。

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ほぼ同じ場所より、対岸には造船所のある蔭ノ尾島や野母半島が見え地形上、砲台を築かれたもおかしくない場所です。神ノ島低砲台については「みさき道人」さんのブログに詳述されております。

明治35年完成で4門の砲を備えた砲台だった神ノ島低砲台、ほぼ同期に作られた神の島公園の一角にあった神ノ島高砲台に比べ標高は50メートルほど低い18メートルだったことで低砲台となったようです。

長崎要塞神ノ島低砲台のあった小字地名の銅ノ下について考えたいと思います。
伊能大図や測量日記、長崎名勝図絵には記載がない地名です。ただ佐賀藩の四郎島台場図には銅ノ下の上方に「ドウノ上」の記載があり付近には恐らく台場関連の建物が数棟あったことが伺い知れます。由来についてはこの「ドウノ上」の下にあったことが小字地名の「銅ノ下」に繋がったことは間違いないでしょう。

では銅は何か考えなくてはなりません、当字のような銅に関する地名ではほぼないでしょう、音から考えれば小さなお堂があり、そこからドウノ下になり当字で銅ノ下になった可能性はありそうですが文献や絵図には見当たらずこちらも可能性は低いかもしれません。
個人的には昔の絵図などを見ると当時島には海岸線の道はなく島の東西を横断するには山道を通るしかありませんでした。その峠道の「とお」ないし「たお」が「ドウ」に転訛した可能性が高いと思えます。「とお」には山頂という意味もありますが、それほど標高も高くなく峠道が通っていた地域ですので峠(道)の下といった意味で「銅ノ下」になった可能性が一番高いと考えられます。

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上記写真は2010年に撮影された神ノ島村 銅ノ下(長崎市神の島3丁目)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。長崎バスの終点神の島3丁目の山手に長崎要塞神ノ島低砲台があったことが分かります。近くには幕府時代にあった台場もあり軍事上重要な場所であったことが分かります。

今日は長崎要塞神ノ島低砲台のあった銅ノ下のおはなしでした。

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