外開(浦上山里村里郷 外開)浦上新田の外側は元三菱の工場地帯

今日は江戸期の浦上新田開発により誕生した外開(ほかびらき)の地名についてのおはなしです。

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写真は銭座町電停より見た茂里町方向、この電停から茂里町電停附近の茂里町周辺が小字地名の外開に該当します。浦上駅に隣接した地域で近年開発が進んでいます。江戸初期の干拓前は写真の周辺も長崎港の奥部でした。

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この雨上がりの茂里町電停、前写真と逆方向になります。先の方に見える緑が井樋ノ口でかって長崎港に突き出た岬だった場所です。

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ココウォークに生まれ変わった元長崎バス茂里町営業所、長崎を離れている間に変わってしまい当時のまともな写真がないのが残念です。元は三菱長崎製鋼所第4工場などがあったようです。こういうときには長崎文献社「復元!被爆直前の長崎」がとても役に立ちます。確かに長崎バスの茂里町営業所の建物もまさにそんな工場をそのまま利用したような雰囲気がありました。

ちなみに線路より浦上川方向(西側)には三菱長崎製鋼所の他に三菱長崎兵器製作所茂里町工場のある一角だったようです。原爆で多くの方が命を落とされた歴史を忘れてはならない場所でもあります。

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こちらの地図は1802年の肥前長崎図の復刻盤ポスター(長崎文献社)より引用。新田と書かれた浜口町より伸びる浦上新田が分かり安く描かれています。聖徳寺が上の茂里町電停から見た写真の岬(緑)のある部分に該当します。

さて外開(ほかびらき)の地名について考えたいと思います。小字地名ですので伊能大図や測量日記、長崎名勝図絵には記載がない地名です。地名の由来ですが開は開墾地や干拓地に使われる言葉ですので干拓地の意味で使われています。また外(ほか)はまさに字が示す通り外側の意味で間違いないでしょう。浦上新田の岩川町や川口町側には小字地名の内開があります。

浦上新田の干拓は浜口側から始めたと推測できますのでその一番外側にある干拓地という意味で外開となったと考えられます。

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上記写真は1975年に撮影された浦上山里村里郷 外開(長崎市茂里町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。昭和50年代ですので長崎バスの茂里町営業所に沢山のバスがいるのが確認できます。またその後ろにはまだ沢山も工場が残っています。

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上記写真は2010年に撮影された浦上山里村里郷 外開(長崎市茂里町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。ココモリの他にブリュックホールもでき随分開発されたことが分かります。

今日は干拓で誕生した外開のおはなしでした。

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