海越しの大田尾方面、左側の山手にある集落が大田尾集落、写真中央付近の海岸線附近に一番古(在来)台場の大田尾台場があったはずですが海岸線は埋立られ残念ながら遺構はないようです。写真右上の崖上にはフェートン号以降に福岡藩が築いたスズレ新規台場がありました。
ちなみに大田尾の古台場は1655年に砲台が築かれ後に石垣が築かれた程度で石火矢は西泊番所から急変の際に持ち込むようになっていたようです。たぶん急変の際には間に合わないと思われます。結局その後フェートン号事件以降の新規台場は高台に築かれ石火矢などを装備していることは一応、幕府としても反省し見直したことが分かります。
江戸期の佐賀藩や黒田藩の絵図、その他の長崎絵図にもこの大田尾台場は描かれています。中でも黒田藩の長崎御台場御固場御陣場絵図が距離も記され一番詳細かもしれません。(ネットでの視聴が可能)ちなみに大田尾の他に大多尾、大タヲなど様々な標記が見られます。ちなみに県営バスのバス停は太田尾ですが西泊よりの随分手前にバス停があります。
大田尾の地名について考えたいと思います。伊能大図には大田尾台場と記され測量日記には大多尾御台場下の記述が見られます。また長崎名勝図絵には烏丘洞(ヲヲドウ)今は大田尾という、西泊の南、海が少し入り組み洞のよう也といったことが記され、この長崎名勝図絵の記載が正確であれば大田尾の由来は海岸線にあった海蝕洞である烏丘洞(ヲヲドウ)が由来になります。
ただその烏丘洞(ヲヲドウ)が由来になった可能性も充分ありますが地形的に見て大田尾は普通に考えれば大きな峠や山の鞍部など意味します、実際、今でこそ海岸線に道路がありますが明治期の陸測図を見ても以前は西泊から山道しか存在していません。そう考えるとやはり地形的に見て西泊から山の鞍部を通るわけでそのことが大田尾の由来になった可能性も充分ありそうです。
現段階で大田尾の由来は上の2説が有力と考えられますが断定はできません。
上記写真は2010年に撮影された浦上淵村西泊郷 大田尾(長崎市西泊町附近)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。大田尾台場の位置は推定になります。路線バスは県営バスが手前の神崎鼻口まで運行されています。
今日は一番台場のあった大田尾のおはなしでした。
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