
写真は木鉢浦、長崎バスの走る内陸側周辺にロシアからの外交使節レザノフの休憩所が設けられたようです。ちな福岡藩御非番之節魯西亜船渡来ニ付長崎御番固之図にはその休憩所が絵図に描かれています。レザノフ自体はここで50日間ほど滞在しその後、梅香崎へ写っています。レザノフの書いた日本滞在記にも記されています。

当時レザノフは若宮丸の漂流民4名も届けてくれたことを忘れてはなりません。ちなみに漂流民が故郷へ帰れたのはなんと1年半ほどかかっており、途中に一人は自殺未遂をはかった記録が残されています。レザノフがしびれを切らすのも同情できる一面があります。
ちなみに船の名はナジェジダ号で船は一時期近くの大田尾に停泊したようです。
それにしても当時鎖国の日本ですから間違いなく厄介者扱いで、だからこそ女神~男神から始まる長崎港外にしか当初上陸を認めなかった点に合点がいきます。

なんとなくこんな船を見ると海に返してあげたくもなりますが、当時はここも海で西泊へ抜けるトンネル近くまで入江があったのが木鉢浦です。この木鉢浦も入口付近を除けば河口部のようにも見えます。
木鉢浦の地名について考えたいと思います。伊能大図や測量日記に記載はありませんがレザノフが滞在したと推定される場所に見送番所の記載があり、蘭船や唐船の帰船の際に役人が詰めていた内容の興味深い記述があります。長崎大絵図には木鉢浦が描かれています。
訂正とお詫び、長崎名勝図絵には1798年冬にこの木鉢浦にオランダ船が難船した記載やこの難船や難船引揚が描かれています。
木鉢浦の由来ですが、木鉢集落(地区)にある浦(入り江)が当然ですが由来になります。長崎大絵図では入江の奥にある矢草川河口部に水田その後背地に集落が描かれています。

こちらは明治34年陸測図「長崎」(今昔マップ on the webより)貴重な明治期の木鉢浦、埋立前で浦が広いのが分かります。

上記写真は2010年に撮影された浦上淵村木鉢郷 木鉢浦(長崎市木鉢町附近)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。木鉢浦の奥部や東側が埋立てが進み河口部のような状態になっていることが分かります。
今日はレザノフが滞在した木鉢浦のおはなしでした。
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