
写真は浦上川対岸から見た新井手地区(写真左側)、手前の文教公園付近には布袋厚氏の「復元!被爆直前の長崎」の地図を見ると防空壕群が記載され、多数の防空壕が作られていたことが分かります。戦時中は三菱の軍需工場が立ち並び、お隣には純心高もある場所です。
防空壕というと山の斜面にある穴をイメージしますがここは川沿いの平地ですので恐らく穴を掘ったものと想像できますがどれぐらいの深さや大きさがあったか興味深い処です。
新井手の地名について考えたいと思います。小字地名ですので伊能大図や測量日記、及び長崎名勝図絵や長崎古今集覧にも記載がない地名です。
大村郷村記の浦上家野村にも井手の記載はありますが場所が大井手以外の井手は残念ながら場所を特定できません。ただこの小字地名の新井手になる井手(水路、堰)は現在の浦上橋付近から三菱船形試験場と三菱昭和寮の間を通された井手を指すので戦時中は主に軍需工場のために水を供給する重要な役割を果たした井手です。
由来は文字通り新しく浦上川より水を引いた井手(水路、堰)があったことに由来します。三菱の兵器工場ができる前は一面稲作地帯ですので軍需工場以前から稲作のために設置されていた可能性は高いと考えられます。付近には今も地名に残る大井手がありますので、大井手より新しい時代に設置した意味で新井手となったのでしょう。
今日は西浦上にある新井手のおはなしでした。
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