
写真は高島炭鉱蛎瀬坑跡、ここより先は立入禁止で中には入れません。炭鉱跡らしい独特な雰囲気があります。蛎瀬坑ですが明治35年に開坑しますが明治39年3月に爆発事故がり300名以上の方が亡くなっています。その後大正12年に閉山しますが、昭和25年に再開坑し、昭和61年の閉山まで稼働していた炭鉱です。海上に浮かぶ岩礁の蛎瀬も見えます。

蛎瀬坑跡に残る廃墟、何に使っていたか正確なことは分かりませんが炭鉱跡にふさわしい建物です。

入口には説明板も設置されています。
蛎瀬の地名について考えたいと思います。炭鉱やその周辺のアパートや海岸を指す地名だったようですが、地形図や小字地名にない地名です。また伊能大図や測量日記、長崎名勝図絵や長崎古今集覧にも記載のない地名です。
由来ですが、蛎瀬坑の西側の海上に小さな岩礁(瀬)があり、そこの呼び名が恐らく蛎瀬だったと思われます。その蛎瀬の近くを炭鉱開発した際に岩礁(瀬)の名前が炭鉱名として使われ周辺の地名になったと考えられます。またその岩礁(瀬)には岩ガキなどが豊富だったことが蛎瀬の由来になった可能性が高いかもしれません。
よく考えてみますと蛎瀬があった場所を埋立て蛎瀬になった可能性もありそうです。空中写真でも分かりますが恐らく埋立られ拡張した部分に炭鉱ができています。

上記写真は1975年に撮影された高島村 蛎瀬(長崎市高島町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。まだ蛎瀬坑も現役時代、周辺には鉱員用の炭住アパート群が見えます。

上記写真は2010年に撮影された高島村 蛎瀬(長崎市高島町)周辺の空中写真です。「国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省」より引用。炭鉱閉山後、周辺のアパート群がすっかり無くなり大きく変化しています。端島や池島と違いアパート群が結構撤去されているのが高島の特徴のひとつかもしれません。ちなみに地名の由来になった岩礁の蛎瀬ですが文字周辺の上下に見えるものが蛎瀬です
今日は高島炭鉱関連地名のおはなしでした。
この記事へのコメント