
大浦と戸町の間にある浪の平、南部方面へ行く長崎バスが頻繁に運行されています。

浪の平地区俯瞰、海沿いにあり造船所などもあり長崎らしさを感じる地域でもあります。浪の平と云えば思い出すのが昭和15年11月1日に対岸の三菱長崎造船所で秘密裏に行われた日本最後の戦艦武蔵の進水式、ちょうど武蔵の建造された第2船台から対岸の浪の平地区までは約680m、戦艦武蔵の全長は263mもあり、普通に船台から滑り降りれば対岸の浪の平に陸揚げしてしまうのは想像の範囲内ですので、沢山の錘をつけ陸揚げしないように処置したようです。
それでも巨艦ですので対岸の浪の平地区には約1.2メートルほどの津波(高潮)が押し寄せたようです。当時は戦時中で軍事機密ですので当日は防空演習で市民は外出禁止うえ、憲兵・警察・警戒隊約1800人が武蔵の見えそうな場所では長崎市民を監視する異常な状況でした。浪の平では畳上に海水が突如流れ込み驚いた市民が外へ出ると警察から注意され家に戻らせる状況だったようです。
そのあたり、吉村昭氏の戦艦武蔵や戦艦武蔵ノートを読まれるといいかもしれません、また戦艦武蔵に関しては手塚正己氏の軍艦武蔵もお勧めです。

浪の平といえば、青函連絡船大雪丸を利用したホテルヴィクトリアがあった時代もありました。個人的に青函航路で利用した連絡船だっただけに無くなったのは残念です。
さて郷名でもあった浪ノ平(現在は長崎市内の町名)の地名について考えたいと思います。伊能大図や測量日記には記載のない地名です、長崎古今集覧には波原(なみのひら)として鍋冠山の下にある水崖である記載が見られます。また(大村)郷村記戸町村では浪ノ平小倉御陣場下堀先磯辺といった記述が見られます。
郷名としての浪ノ平は明治18年以降から見られるようなったようです。
浪ノ平の由来ですが、波のある傾斜地(崖)が由来と考えられます。バスの通る道路(平地)部分は埋立地で昔は水際まで崖だっと地域です。江戸期の絵図に浪の平近くにはシホハヤリといった地名も見られ、潮流があり、他に比べ地形などの要因で普段より波が高いことから地名にも浪(波)が当てられたのはないのでしょうか。
今日は浪ノ平のおなはしでした。
この記事へのコメント